カテゴリ:アナキズム( 2 )

2月26日講座「林倭衛とアナキストたち」

 講座「林倭衛とアナキストたち」
  「トスキナア」誌発刊10号「記念」
講師 正津勉 しょうづ べん <詩人>       
──孤愁の表現者、林倭衛、古田大次郎(ギロチン社と同志中濱鐵)──

 2月26日金曜日 午後8時 開場         

会場 キッドアイラックホール・ギャラリー 

京王線・井の頭線「明大前」駅徒歩3分甲州街道に出る手前「レンタカー事務所」斜め向かい
同ギャラリー「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展との連携企画 註 予約制・午後8時まで鑑賞できる展示会の入館料200円。講座は無料。展示会場に椅子を設置して行うので鑑賞される方は7時半ころまでに来館してください[地下に村山槐多を記念した「カフェ」もあります]

 発言・亀田 博 <『トスキナア』世話人>  
「H氏の肖像」と久板卯之助。90年振りに「発見」された久板の写真。「トスキナア」11号掲載予定
  林倭衛「仏蘭西監獄及び法廷の大杉栄」 全体での質疑、発言  9時半終了

 主催 「トスキナアの会」  P.H.070-5015-1250 午前8時から昼 futei@jcom.home.ne.jp

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「H氏の肖像」
所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供
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『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー
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『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行
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関係項目リンク
「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛<仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む>(執筆原稿)コンテンツはこの項目と重なる部分があります。


古田大次郎

サイト・アナキズム 大杉栄クロニクル 林倭衛宛手紙部分 記載複数 1923年


アナキストたちの記憶〈大杉栄より、林倭衛宛手紙〉


リンク「山の本」ブログ


『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト


久板君の追悼   村木源次郎 (他の久板関連リンクは現在「切れた」状態です)
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by 1911124 | 2010-02-07 12:37 | アナキズム

「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛<仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む>(執筆原稿)

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「H氏の肖像」
H氏は久板卯之助 彼の貴重な写真が「発見」され『トスキナア』11号 4月発行に掲載。

所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供
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『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー

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2月26日展示終了後午後8時から『トスキナア』誌10号刊行・記念「講座」
キッド・アイラック・アートホール3F・4F 
講師・正津勉(詩人)「林倭衛とアナキストたち」

京王線「明大前駅」近くキッド・アイラック・アートホール3F・4Fで2月28日まで
開催中。11:00から20:00 同時企画展・酒場「風紋」開店時間中。
 同展案内の引用
「林倭衛は私の<信濃デッサン館>がある信州上田生まれの人。上京してアナーキスト大杉栄や画家硲伊之助、有島生馬らを知り、道路人夫などしながら画道に励んだ。倭衛の代表作といえば大杉栄をモデルにした「出獄の日のO氏」。
ひとくちにいえば倭衛は<反骨>を貫いた画家だったといいいえるけれども、フランスから帰国して春陽会々になってからの平明な風景画にもいいのがたくさんある。平明と反骨、抵抗と温順。
晩年の倭衛は日々酒浸りでのんだくれていたそうだが、私にとっての倭衛は、一生自分の真の姿を隠していた「孤愁の画家」のように思われる。倭衛の絵の底にある、色彩や線にひめられたふしぎな静けさをみていてそう思うのだ。
 今回の展覧会を「その孤愁のゆくえ」と題した所以である。」
             キッド・アイラック・アートホール 窪島誠一郎

『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行
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他館の展示
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/katudou/houshin/hayasisizue/index.html

「長野県上田に生まれ、東京で育った作者の林 倭衛(1895-1945)は、伸びやかな筆致と鮮やかな色彩で、詩情あふれる風景画を多く残しました。林倭衛といえば、のちに関東大震災で官憲に虐殺されたアナーキスト・大杉 栄をモデルに描いた《出獄の日のO氏》(1919年、長野県信濃美術館蔵)がつとに有名です。略  林は、「センジカリズム研究会」に加わり、当時のアナーキストたちと親交を結びました。

アートログ「林倭衛_出獄の日のO氏」
http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000157.html
『出獄の日のO氏』 大正8年作 長野県信濃美術館所蔵
苦学しながら油絵を習得する。大正8年の二科展に出品された本作は、モデルが反体制運動の中心人物「大杉栄」だったため、治安を乱したという理由で警視庁から撤回命令が出され会場から外されてしまった。

八二文化財団
http://www.82bunka.or.jp/gallery/1989/06/post-33.php
出獄の日のO氏 1919年 油彩
モデルは反体制運動の中心人物、大杉栄。第6回二科展に出品した。しかし警視庁から撤回命令が出され会場から外された。日本が軍国主義に傾斜していくなかで、芸術に対して思想問題での権力介入が行われた最初であり、日本近代美術史上、最大の汚点となった。しかし、この作品は彼の肖像画の中でも傑出。性格描写のすぐれた作品として評価が高い。
 
埼玉県立近代美術館 積藁
http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/kinbi/kin0057.html
2度目の滞仏から帰国後、林倭衛は病弱な妻の転地療養をかねて千葉県市川市に移る。本作はこの時期に描かれ、翌年の新文展に出品されたもの。松田改組によるこの新文展で彼は審査員に推されている。見るものの視線は、中央奥へと連なる積藁によって青紫がかった山影へと導かれ、ついで画面右半分を占める、刈入れのすんだ野の茫漠としたひろがりをさまようこととなる。ほぼ同じ構図の作品が神奈川県立近代美術館に所蔵されている。

同館 別所沼風景
http://www.momas.jp/004josetu/J2006/j2006.07/j200607.htm

姫路市立美術館 デジタルミュージアム 静物
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/meihin/nihon/siz_hayasi/index.html

愛知県美術館 サント・ヴィクトワール
http://search-art.aac.pref.aichi.jp/p/sakuhin.php?OI=OBJ199704947

上田人物伝
http://museum.umic.jp/jinbutu/data/026.html
やがてバクーニン宣言に巡りあい、倭衛は当時としては「究極的な理想主義」の言葉に巡り合えたような情熱を覚え、同じような青年たちとサンジカリスム研究の仲間を作ったのです。そんなグループが社会改革を目指して『近代思想』誌を発刊し、進んで『平民新聞』を刊行に至ったのが大正3年の秋でした。同じ風潮が画檀では二科会を立ち上げていました。

1月22日付け『朝日新聞』クリックすると多少は拡大されます
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仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む『トスキナア』誌10号 2009年10月発行掲載・冒頭転載

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』誌一九二四年六月に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。
しかし井澤と鴨居という松本にとって「毎日」新聞の「先輩」記者の記述に関心を寄せず、固有名詞ではなく「二人の記者」としか表現をしていないこと、林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない点が残念である。
 小松清と大杉栄との関係に関して筆者は数年前に『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ、(一九九九年発行、白亜書房刊)を知り、小松清の未発表自筆原稿は「エゴイスト」の存在から間接的に知り『トスキナア』創刊号に紹介をした。
同書で「エゴイスト」は「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」と解説をしている。大杉のフランス滞在に頁を割いている著作として他に『大杉栄自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松の作品に触れていない。
 掲載号『改造』の一九二四年六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。
「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれる。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 
一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た

二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。

三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。

四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。

五章、リヨンでの中国の同志との交友。

六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。

七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。

八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章。

九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。

十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
 
十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
 
十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。



久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。

1922 1月21日 久板卯之助凍死
1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」
1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄<久板卯之助君凍死す> 1月25日
『労働運動』第3号  1922.3.15
1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 <追悼日誌> 
<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」
<真の革命家> 紀伊 村井林三郎<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……<彼と性欲> 岡野辰之介<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」
1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」
1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」
1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

関係項目リンク

古田大次郎

サイト・アナキズム 大杉栄クロニクル 林倭衛宛手紙部分 記載複数 1923年


アナキストたちの記憶〈大杉栄より、林倭衛宛手紙〉


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執筆・編著書籍紹介ブログ


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久板君の追悼   村木源次郎 (他の久板関連リンクは現在「切れた」状態です)
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by 1911124 | 2010-01-22 15:01 | アナキズム