カテゴリ:韓日歴史( 2 )

閔妃殺害事件、三浦梧桜に殺害を教唆された予審の48人

この項は執筆した<閔妃殺害事件、与謝野鉄幹の「関与」と「逃亡」>のごく一部である。

<後に歌人として著名になる与謝野鉄幹の関わりも従来、本人の回想を基に「鉄幹が事件に関与」あるいは「殺害に関与」、「予審に起訴された48人の一人」という情報が流通しているが、現時点では本人の回想以外に傍証は見つからず関与の度合いは不明である。もちろん下記にリストアップした48人のうちに与謝野鉄幹の名は無い。
            
 114年前の10月27日はその与謝野鉄幹が韓国から「逃亡」した日になる(退韓者の乗船名簿・外務省史料・には従者ヨサノテツとされている)

予審に起訴された主要人物
 三浦に限らず、前述の堀口九萬一領事官補、杉村濬公使館一等書記らも日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入し殺害に関与をした。
 衆議院議員の柴四朗(東海散士の名で小説を発表)、民間人では熊本の国権主義者が半数近くを占め漢城新報社の社長、主筆、編集長らが関与をした。
 日本政府は関係者、その家族、従者たちを退韓処分とし憲兵の同船により広島に「護送」、広島地裁により拘引状が出され拘置監に収容された。
 
 軍人も指揮官八名が軍法会議にかけられたが「無罪」判決により放免された。朝鮮国内の非難、国際世論をかわすための見せかけの処置であった。
 
 事件の解明はされずに百年が過ぎ去り近年にようやく複数の研究が著された。
 日本は国家として解明をする責務は放棄したまま今日に至る。

 東京学芸大の教員である李修京さんの論文が「ソウル文化トゥディ」というウェブ誌にアップされ本人から掲載時にリアルタイムで教示された。(韓国語)。山辺健太郎講演テープ、三浦梧桜と伊藤、井上、山県の長州閥の深い関与を三浦の回想録などを基に論究。
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2819
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2821

 李修京さんの研究の一部はすでにウェブ掲載論文「朝鮮王妃(明成皇后)殺害事件を語る当時の英字新聞」<李修京研究室ウェブサイト韓日文化・社会論>がアップされこちらは日本語で読むことができる。

日本人殺害加担者、あるいは実行者一覧
 民間では侵略を担った漢城新報社、記者、熊本国権党などが主体。自由党分子も参加。新政府との対立を経て帰順した国権主義者たちである。
 衆議院議員、柴四郎は戊辰戦争での敗者の側にいた。民間の「大陸浪人」と単純化させられない天皇国家とその補完の役割を為した暴漢たちであるが、中心メンバーは当時の社会的「地位」もそこそこあった。後年になり大臣になった者もいた
 前年の七月、景福宮への布告なき戦争行為、甲午農民戦争での民衆虐殺が朝鮮での侵略、戦闘行為の意識を安易にさせたのではないか。

 広島地裁予審判事吉岡義秀による「予審終結決定書」に記されている48人を記す。予審終結決定書は「明治29年1月20日」に出され全員免訴
 通し番号は決定書記載順、整理上の仕分けで資料的な意味はない。
                          

三浦梧楼 当時は公使。予備陸軍中将 華族とされている。東京 予審終結決定書29
岡本柳之助 宮内府兼軍部顧問 和歌山 予審終結決定書1
浅山顕蔵 朝鮮国補佐官 長崎 予審終結決定書35
佐瀬熊鉄 医業 福島  予審終結決定書37
渋谷加藤次 内部顧問官 熊本 予審終結決定書44
大浦茂彦 通訳官 長崎 予審終結決定書45
蓮元泰丸 通訳官 滋賀  予審終結決定書46
堀口九萬一 領事官補 東京大学法学部卒業、事件後ブラジルとルーマニアで全権公使 予審終結決定書31
杉村濬 公使館一等書記 東京 予審終結決定書30
鈴木重元 新潟 予審終結決定書47
柴四郎、衆議院議員、著述業・筆名は東海散士 福島 
三浦と一緒に朝鮮にわたるハーバード大学を終えて再度ペンシルバニア大学で経済学を専攻、政治家、小説家、1892年に議員に選出 予審終結決定書2
安達謙蔵 漢城新報社長 熊本 浪人の終結担当、加藤高明内閣の逓信相、浜口内閣の内相 予審終結決定書に記載順番36
国友重章 漢城新報社主筆 熊本 漢文に造詣が深い 予審終結決定書3
小早川秀雄 漢城新報編輯長、熊本 予審終結決定書23
菊池謙譲、新聞記者 熊本『近代朝鮮史』などを著述した 予審終結決定書15
佐々木正、新聞記者 熊本  予審終結決定書16
牛島英雄 新聞記者 熊本 予審終結決定書20
宮住勇喜 新聞社員 熊本 予審終結決定書48
吉田友吉 新聞記者 岩手 予審終結決定書7
山田烈盛 新聞記者 東京 予審終結決定書14
佐々正之 熊本 朝鮮進出の事業部門を担う。予審終結決定書10
(実兄の佐々友房は関与はしていないが友房の経歴を挙げると、西南戦争、熊本隊に参加(1,200名)、1877年官軍に帰順し1880年放免、1879年同心学舎を設立
し1882年済々黌と改称。「清韓語学研究所」を併置、中国、清から教師を招聘、後に熊本国権党と改名をする紫溟会を立ち上げ参謀本部の諜報活動に協力する)

広田止善 熊本 予審終結決定書5
平山岩彦 熊本 予審終結決定書8
沢村雅夫 熊本 予審終結決定書11
片野猛雄 熊本 予審終結決定書12
隈部米吉 熊本 予審終結決定書13
前田俊蔵 熊本 農業 予審終結決定書18
家入嘉吉 熊本 予審終結決定書19
松村辰喜 熊本 小学校教員 予審終結決定書21
佐藤敬太 熊本 予審終結決定書26

寺崎泰吉 神奈川 売薬商 自由党
星亨の子分、1889年自由党の壮士団、無声館、 予審終結決定書34
中村楯雄 熊本 雑貨商 自由党 予審終結決定書24
田中賢道 熊本 農業 自由党 予審終結決定書27
平山勝熊 熊本 新聞社員 自由党 予審終結決定書28
藤勝顕  福岡 自由党 予審終結決定書6
難波春吉 神奈川 雑貨行商 自由党 予審終結決定書25
(六人の自由党壮士団の背後に法部顧問として朝鮮政府に雇用3,600円の年俸を支給されていた星亨がいた)

月成光  福岡 予審終結決定書4
大嵜正吉、宮城 予審終結決定書9
武田範治 福岡 予審終結決定書17
鈴木順見 京都 予審終結決定書22

境益太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書32
白石由太郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書33
萩原秀次郎 外務省警部 長野 予審終結決定書38
渡部鷹次郎 外務省巡査 東京 予審終結決定書39
成相喜四郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書40
横尾勇太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書41
小田俊光 外務省巡査 鹿児島  予審終結決定書42
木脇祐則 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書43

 軍法会議判決
軍法会議 無罪判決 明治29年1月14日
楠瀬幸彦陸軍中佐、馬屋原務本 陸軍少佐、石森吉猶 陸軍大尉、高松鉄太郎 陸軍大尉、鯉登行文 陸軍大尉
村井右宗 陸軍大尉、馬来政輔 陸軍大尉、藤戸与三 陸軍大尉

予審終結決定書による三浦梧桜の王妃に対する殺人教唆の認定

「岡本柳之助外四十七名に対する謀殺及兇徒聚衆事件平山岩彦に対する故殺事件等検事の請求に依り予審を遂くる処被告三浦梧桜大院君時弊を憤慨し自ら起て宮中を革新し輔翼の任を尽さんと欲するの意を致し陰に助力を求め来りたるより同年十月三日被告杉村岡本と公使館に会し三名謀議の上……略、訓練隊と時勢を憤慨する壮年輩を利用し暗に我京城の守備隊をも之に声援せしめ以て大院君の入闕を援け、略、宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり……」

「又被告安達謙蔵国友重章を公使館に招致し其知人を糾合して竜山に柳之助と会し共に大院君入闕の護衛を為す可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を断つは実に一挙にありとの決意を示し入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し被告萩原秀次郎には部下の巡査を引率し柳之助と協議し大院君の入闕に付尽力すべき旨を命じ…略」
「被告謙蔵重章の両人は被告梧桜の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力…略」

「被告謙蔵重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧桜の教唆を伝えられ各殺意を決し其他右等の事実を知らす一時の好奇心に駆られ附和せし者に至る迄各凶器を携え…略」

「一同は柳之助を総指揮者とし…略…翌八日午前三時頃大院君の轎輿を擁して出発したり而して被告柳之助は其際表門前に一同を集め入場の上狐は臨機処分すべしと号令し以て王后陛下殺害の事を教唆し未だ其事実を知らさりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしめ夫より京城に向い徐々前進し西大門外に於て訓練隊に出逢い…略」

「直に後宮まで抵りたる等の事実ありといえども前記の被告人中犯罪を実行したるものありと認むべき証憑十分ならず……略……刑事訴訟法第百六十五条に従い各被告人総て免訴し且被告三浦梧桜、杉村、岡本柳之助、安達謙蔵、国友重章、寺崎泰吉、平山岩彦、中村楯雄、藤勝顕、家入嘉吉、木脇祐則、境益太郎は各放免す」
「明治二十九年一月二十日、予審判事 吉岡美秀」

主謀者、三浦梧桜
 三浦梧楼が京城現地における首謀者であり王妃、女官、官吏などの殺害の実行正犯であることは確かである。
 広島での予審は48人全員が免訴になっているが、その理由を述べた「予審終結決定書」の記述は奇妙である。

「事実」関係として三浦梧楼と大院君の結びつきを強調し、47人の現場での役割は曖昧のままであるが乱入した目的が三浦に「教唆」され目的が「王妃」を殺害するためと認定しているのである。
 しかし王宮乱入後の具体的行為に関しては判断を避け、「証拠が不十分」であるとし「決定書」を「まとめ」てしまうのである。

 日本政府の一部高官から圧力がかかり「免訴」の決定を出さざるを得なかった状況下、三浦たちの態度があまりにも「自慢げ」に王妃殺害の関与を認めていたため「決定書」に書き残したのであろうか。しかし「誰が」と特定をしないために王宮乱入後の役割は追及されていない。


領事、内田定槌の報告書
 「韓国王妃殺害事件」の綴りには詳細な領事館からのリアルタイムの報告が綴られている。
 その一つに「朝鮮京城領事館」と赤色罫紙の真中に印刷され、内田領事の直筆と推測できるが整った筆遣いで墨書きされ 最後の署名の上には朱肉で角印がくっきりと押され複写ではなくオリジナル一通の原本であることを示している。

<『朝鮮王妃殺害と日本人』で金文子さんは「毛筆細字でびっしりと書かれた」と紹介しているが実際は読みやすい角張ったゴシック文字のような文字>

 金文子さんは同書の終章の 359頁で<本事件を「歴史上 古今未曾有の凶悪」事件であると外務省に報告した京城領事内田定槌でさえも、>と著している。

 原文の最後部を略さず引用すると

<「今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者有之独り壮士輩のみならず数多の良民及安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員及守備隊迄を煽動して歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたるは我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候別紙本件に関する証憑書類及電信往復(本省の分は除く)相添此段及具報候、敬具、明治二十八年十一月五日、在京城一等領事、内田定槌>

との文言である。
 内田は「我帝国の為め」すなわち天皇国家の為に嘆き
「歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたる」と評価をしたのである。

史料翻刻と研究
 これらの史料は『日本外交文書』28巻や『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年、原書房から翻刻され、ほとんどの文書は活字で読むことは可能であり「日本外交文書」は外務省のウェブサイトでアップされている。しかし翻刻で整えられた活字を追うのと異なり原本閲覧では作成をした当事者の息づかいまでが伝わって来る。

 当時、青森大教員の市川が1981年に編集した上記の史料集は研究にかかせない一次史料の翻刻文献であり、なおかつ「解説」で三浦梧桜の事件の「真相隠蔽」「首謀者」ということを顥かにしている。<山辺は1966年に先行して一部史料を引用し追及をしている>。

 内田領事の11月5日付け西園寺外務大臣臨時代理宛「明治二十八年十月八日王城事変顛末報告の件」と題された報告書は自身の「事件」への感想を含め添付の書類が綴じられている。
 それらとは別に10月の中旬、17日の公使三浦の解任・召還を始めとして領事館関係者、民間の「退韓処分」の動向が乗船名を含め家族、使用人の同行も含めて日帝本国外務省へ報告がされている。



参照文献
『日本外交文書』28巻 外務省

外務省外交史料館「韓国王妃殺害一件」
『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年原書房

http://www.u-gakugei.ac.jp/~skdragon/kannichi/kannichi5.html
(同論文関連文献・未見「朝鮮王妃殺害事件の再考」李修京他『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』ISSN1880-4314、07年1月)

『日本の韓国併合』山辺健太郎 1966年 大平出版 

『帝国と暗殺』内藤千珠子 05年 新曜社 第二部 スキャンダルと暗殺 第四章 王妃と朝鮮 第五章 死者たち

『《朝鮮》表象の文化史』中根隆行 〇四年 新曜社 第四章 従軍文士の渡韓見聞録 日清・日露戦争期の朝鮮像と与謝野鉄幹「観戦詩人」

「沙上の言葉四」 与謝野鉄幹 『明星』第五巻五号 1924年10月 134頁 原本未見

「与謝野鉄幹と朝鮮」桧野秀子『季刊三千里』28号 1981年 

『閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲』崔文衡チェ・ムンヒョン 04年
彩流社《ソウル刊01年》

『朝鮮王妃殺害と日本人』金文子 09年 高文研

『評伝与謝野寛晶子明治編 新版』逸見久美 07年 八木書店
歌の解釈と年譜をなぞっただけである

未見文献
『日清戦争と朝鮮』朴宗根 1982年  青木書店
第六章「三浦梧楼の赴任と明成皇后(閔妃)殺害事件」
『閔妃暗殺』角田房子 崔文衡さんは強く批判
「閔妃殺害事件の再考察」秦郁彦『政経研究』43-2 06年10月


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by 1911124 | 2009-10-31 07:08 | 韓日歴史

朝鮮独立運動家が処刑された10月10日 

 10月10日は当時の新聞にも大きく「事件」「裁判」として報道されているが二人の朝鮮独立活動家が、処刑された日である。
 1928年、1932年と時代は異なるが、いずれも刑法の73条いわゆる大逆罪、75条の皇室に対する罪に問われている。攻撃対象となった当人たちは無傷である。量刑が死刑しかない刑法73条、死刑と無期懲役の75条に付されたことによる。

 現行刑法から1947年にようやく削除。景福宮に乱入し閔妃を殺害した日本人側の襲撃者が、予審段階で
<裁判にもかけられていない。現在でいえば「取調べ」段階である。裁判と勘違いをする方がいるので注意>で免訴になった事とは大きな違いがある。一九二八年五月一四日、朝鮮の独立活動家、チョ・ミョンハ(趙明河)は台湾、台中で天皇の義父、久邇宮邦彦を短刀により襲撃するも失敗に終わり逮捕された。台北高等法院上告部で七月七日に公判が開かれ、事実調べ、検事論告、弁論が行われ結審をした。
金子裁判長は同年七月一八日、刑法七五条<皇室に関する罪>前段を適用し死刑判決を出した。
一〇月一〇日、台北監獄にて処刑された。(記事解禁後の「朝日新聞」による)
 あえて死刑の前段を適用したのは過酷な弾圧である。

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 一九三二年一月八日、警視庁前から桜田門に天皇ヒロヒトの馬車が通過せんとしたときイ・ボンチャン(李奉昌)が爆弾を投げつけた。宮内大臣乗用の馬車の後車輪付近に落ちて馬車に軽微の損傷を与えた。
 イ・ボンチャンは、上海の韓国臨時政府の重鎮で韓人愛国団長の金九を訪ね天皇打倒の決意を語っていた。東京に向かう前年の一二月に愛国団に加入した。

 一九三二年六月三〇日に予審終結、大審院は七月一九日に審理に付すことを決定。九月一六日に即日結審、三〇日に死刑判決を出し、十日後の一〇月一〇日午前九時市ヶ谷刑務所にて処刑された。

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大逆罪弾圧と日本のアジア侵略は不可分の関係である。侵略された被植民地の独立活動家の少なからずは日帝、
日本の天皇を攻撃目標としていた。

 朝鮮の独立活動家シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」(一九二三年一月)には日本天皇を攻撃、打倒目標として明確に掲げていた。独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言している。大審院が翻訳させた全文から一部を引用する。

全文はタイピングをして次のブログにアップしています。韓国語は画像 


「革命の記録は必ず惨絶壮絶然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
 一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切施設物」と打倒目標を掲げている。
(念のため補足。全文は引用できないが、革命宣言は自民族、社会の革命が本質である。日帝打倒、あるいは官憲、売国奴打倒は建設のための破戒としている。第四、第五を転載しておく)
【第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。】
 それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、それらの限界を越える内容である。
 アン・ジュングンの「伊藤博文の罪」は、1905年の乙巳・ウルサ条約強制直後の11月20日付『皇城・ファンソン新聞』に張志淵・チャンジヨンが「是日也放声大哭」を掲載、その伊藤博文批判、<「保護」の五条約が東洋三国の分裂する兆候>や崔益鉉チエイッキョン・の「棄信背義十六罪」の「継承」であり、アンジュングンの「東洋平和論」は帝政や国権、日本の軍隊の存在を前提とした主張である。
(岩波書店刊の雑誌『世界』10月号がアンジュングンの「東洋平和論」を漢文からの新訳として掲載しているが、単に遺稿としての「東洋平和論」の紹介であり、訊問調書、判決後に旅順監獄で聴取された「陳述」での東洋平和論の紹介はされなく、また全く触れられていない。論文タイトルに誘導されたままの限定された東洋平和論の掲載である。)1906年6月に蜂起した崔益鉉は「棄信背義十六罪」の問罪状を日本に送っている。
「韓国の独立・自主の明言、信を破り韓国を不法に侵害、甲申政変、王宮占領、閔妃殺害、乙巳条約にいたる十六項目を列挙」
日本が棄信背義を謝罪、韓国支配を止めることを求め、そのうえで東洋平和のための韓日清三国の協力の必要を説く」『韓国併合』海野福寿、1995年、169頁
 また二・八「宣言書」は生存権での闘争は主張しているが全体は理念的という限界がある。【わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり、最後の一人に至るまで必ずや自由のために熱血をそそぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが民族は一兵も持っていない。わが民族は兵力をもって日本に抵抗する実力はない。しかしながら、日本がもしわが民族の正当な要求に応じなければ、わが民族は日本に対し永遠の血戦を宣布せざるを得ない。わが民族は高度の文化を持ってからすでに久しい。そしてまた半万年にわたる国家生活の経験を持っている。たとえ多年の専制政治の害毒と境遇の不幸がわが民族の今日を招いたものであるにせよ、今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであろう。】
三・一独立宣言の眼目は公約三章にあるが、「一、正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求、自由の精神を発揮、排他的感情になるな。二、最期の一人、一刻まで民族の正当な意思を発表せよ。
三、行動は秩序を尊重し主張と態度を公明正大にやろう、
と行動の指針を示し「日帝に奪われた国権と民族の自由の回復、自主の精神を全世界に見せる」
と抽象的である。
 台湾や朝鮮を侵略し植民地支配していた日本帝国主義は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。
「朝鮮革命宣言」を公表、配布をすれば不敬罪の対象となりまた、その主張に同意をすれば大逆罪、刑法七三条の容疑にて弾圧されるのは必定であった。
 天皇を神格化した大日本帝国憲法のもと刑法七三条は
一九〇八年一〇月に旧刑法の改変にともない整えられた。条文は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。

<『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』
              森長栄三郎発行より抜粋>

≪鍛冶橋監獄署、東京監獄沿革≫

「警視庁監獄署は元鍛冶橋内監倉事務取扱所と称し、八重州町に在り…1870年12月の創設……1874年12月、竣工、称して鍛冶橋監獄……1903年3月、警視庁官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は司法大臣の管理、警視庁第四部直轄たりし鍛冶橋監獄も独立して東京監獄と改称、これより先1901年4月、牛込区富久町113番地に19000坪弱の地に未決監仮建築の工を起こす、1904年3月31日、建坪2700坪、303房に区画、1903年6月25日、鍛冶橋より移転、東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれ1905年5月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……1922年10月13日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれ……震災で被害を受けたが1926年には復旧完成……1937年5月25日、池袋駅近くの東京拘置所が落成するとともに市ヶ谷刑務所はなくなった。……ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことである。幸徳秋水らが東京監獄から発信したものをみると「市ヶ谷富久町113」になっている。しかし、刑場跡の一帯は富久町66番地であったという。1950年から刑場跡余丁町88番地の一隅と言うことになった。おそらく東京監獄ができる前の町名番地が復活したものであろう。1949年頃、刑場跡の場所が富久児童遊園となった。………

補足
 アン・ジュングンが義兵闘争に向かっていた時代に東アジアにおける社会主義者の活動は如何なるものであったか。他の執筆論文から一部転載をしておく。

「社会主義者の連帯「亜州和親会」
伊藤博文が殺される二年前、一九〇七年夏には東京にてインド、中国の活動家を中心にした「亜州和親会」が発足し安南、フィリピンの活動家も加わり会合、研究会には日本の社会主義者も参加、後に朝鮮の独立運動家も加わった。
その理念は中国の社会主義者、劉志培が同年一一月に執筆した「亜州現勢論」(『天義』一一・一二号合冊号に中国語で掲載)に著されている。
「私はさらにアジアの被圧迫民族に次の二つのことを望みたい。
一 同時に独立すること    
二 政府を設けないこと
独立後は無政府の制度を行ない、人民大同の思想を用いて、あるいはバクーニンの連邦主義を採用し、あるいはクロポトキンの自由連合の説を実行して、人民の幸福を永遠に維持できるようにしなければならない。これが被圧迫民族の人民が知らねばならぬことの二つである」としている。
アン・ジュングンが『東洋平和論』の執筆時に「亜州和親会」や「亜州現勢論」を認識していたかは定かではないが、東アジアにおいて日帝が侵略を拡大せんとする時期に民衆の側は日本の社会主義者も含めて東京にて連帯と帝国主義に対する闘いを模索していた。
そしてそれまで朝鮮侵略に対する見解があいまいであった日本の社会主義者たちは一九〇七年七月二一日に決議を発した。
『東京社会主義有志者決議』
「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」
 この決議は直接行動派と議会政策派の両派の機関紙『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。

知られざる革命家ジョ・ソアン
日本政治史の研究者であるイ・キョンソクさんは『平民社における階級と民族』において、理論的に対立をしていた両派が同一に「決議」を行った背景にはアジアの革命家とくに朝鮮人の存在が大きく、抗議と要求があったと論究をしている。とくにジョ・ソアン(趙素昴)の活動に焦点をあてている。
 イ・キョンソクさんの研究によるとジョ・ソアンは一八八年生まれ。一九〇四年に日本留学し〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に戻り九月三日に再び東京に来る。〇九年一二月、親日派の売国的行為に対して国民世論を喚起し宣言書を起草し掲載した『大韓興学報』は停刊処分を受けた。
一九一三年上海亡命、アジア連帯、無政府主義の実践とも見える行動を起こした。亡命動機に「亜細亜弱小民族反日大同党」の結成にあったとしている。
 一六年にジョ・ソアンは再び上海に亡命「大同党」の結成を推進したが進捗せず、満州、沿海洲の朝鮮独立運動家との接触に奔走。後に「三均学会」がある。一九三〇年代に「三均主義」を理論化。それは「朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる」とジョ・ソアンの活動を記述している。

弾圧による社会主義活動の後退
 アジアにおける社会主義思想を軸にした東京での連帯活動は長くは続かなかった。〇八年一月の金曜会の講演会への弾圧、大杉栄、堺利彦らが実刑判決を受けた六月の「赤旗事件」(無政府共産を縫いこんだ旗を錦輝館から掲げて街頭に出ようとした際に官憲から弾圧を受ける)で連帯は分断された。
 さらに朝鮮侵略が本格化した二年後、アン・ジュングンの処刑の年に幸徳たちにかけられた大逆罪適用は日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧であった。
 その幸徳秋水を含め一二人が処刑された大逆罪弾圧からも二年後には百年を迎える」


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by 1911124 | 2009-10-10 07:13 | 韓日歴史