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金子文子の足跡「韓国日報」特集記事

 4月29日、韓国日報の記者から研究に対する取材とフィールドワークの案内を依頼された。
以下はその記者の記事本文翻訳である。当日の通訳と記事翻訳は

『韓国日報』原文サイト 2010.5.11

国境を超越したアナキストの愛
死の前でも'天皇制'に全身で抗う
天皇爆殺謀議し捕らえられ、死刑判決を受けた後、夫婦のきずな
朴烈、23年間服役後釈放、金子は獄中で謎の自殺...
二人が求めたアナキズム、独立運動家たちに大きな影響
1926年2月26日午前、東京最高裁大法廷。制服姿の警官150人と憲兵30人が裁判所の内外を統制する物々しい雰囲気の中で1人の朝鮮人男性と日本人女性が被告席に座った。

男は白い絹の下地に紫色を帯びた上着とねずみ色のズボンを履き、腰には鶴を刻んだ角帯を締めていた。女性も、白い絹のチョゴリを着て、頭に飾りを2つ差し込む端正な姿だった。朝鮮式の衣服を着用することで、日本帝国主義の法廷に向かって無言の抗議を表示した被告人たちは朴烈(1902〜1974)と彼の妻金子文子(1903〜1926)だった。

彼らの容疑は、刑法第73条と爆発物取締罰則違反。日帝の刑法第73条は王、王妃、皇太子、王継孫に危害を加えようとすると、死刑に処するという、いわゆる大逆罪だった。証拠もなく、爆発物テロの対象と日付も明示できない粗末な起訴だったが、3月25日の決審公判で大逆罪の朴烈夫妻には、死刑判決が下された。しかし、彼らは死を前にしても堂々としていた。退廷する判事にむかって朴烈は、"裁判は、卑劣な芝居だ!"と叫んだ。金子文子は、"万歳"を叫び、天皇制国家日本を嘲弄した。

日帝強占期に韓国人の民族解放運動を指導する理念としては民族主義と共産主義を選ぶが、第3の思想、アナキズムも見逃すことができない。よく『無政府主義』と翻訳されるアナキズムは、個人的自我の解放と自律性を主張し、民衆を搾取するすべての権力を否定する。
アナキストたちは右派民族主義はもちろん、党に権力が集中する共産主義も批判と敬遠の対象とした。 申采浩、李会栄、曺奉岩ら、非常に有名な人物がアナキズムの洗礼を受けたり、これを積極的に支持した。

朴烈は慶北聞慶(ムンギョン)出身で、京城高補へ入学、3ㆍ1運動に参加した後、弾圧を避けて東京に渡り、日本で差別される朝鮮人の現実を暴露する先頭に立った。在日留学生、日本人のアナキストたちと意気投合し、[黒涛会]「不逞社」などの会を創設した後、天皇家にたいする爆弾テロを謀議した。

万物絶滅を主張した彼のアナキズムが虚無主義に貶されたのも事実だ。しかし、朴烈は法廷の陳述で、自身の理念を"消極的には、私一人の人生を否定するものであり、積極的には、地上にあるすべての権力の打倒が究極の目的"だと陳述したが、これは彼のアナキズムが個人の犠牲を通して社会を救うという、殺身成仁の性格を持っていることを証明する。

彼は1923年9月拘束され死刑判決を受けたが無期懲役に減刑、1945年10月秋田刑務所から釈放されるまで、23年間服役した。これは第二次世界大戦以前の日本では、単一事件としては最長の収監記録だ。朴烈は韓国戦争当時拉致され、1974年北朝鮮で死亡し、1989年抗日闘争の功労から大韓民国建国勲章大統領杖が追叙された。

日本の横浜で、非嫡出子として生まれた金子文子は、親や親戚から虐待を受け、朝鮮で6年間生活し、植民地の人たちの痛みを体験した後、アナキズムに傾倒した。彼は朴烈と同居し、朝鮮の解放と天皇制の廃止を主張して、23の齢で獄中で謎の自殺で生を終えた人物だ。

彼女の生は試練の連続だったが、それは権力との対決という、彼女の確信をさらに固めた。日本人の判事は裁判過程で、"なぜ日本人である貴女が朝鮮人の肩を持つのか"と、何度も転向を強要したが、彼女は"私は権力の前に膝まずいて生きるよりは、むしろ喜んで死んで、最後まで自分自身の内面的欲求に従う。決して恐れないだろう"と述べた。

朴烈と金子文子の痕跡を訪ねて出た先月29日、皮肉なことに日本の祝日である昭和の日だった。裕仁前日本の天皇の誕生日だ。

一番最初に訪ねたのは朴烈と金子文子が逮捕され、1923年9月から1926年4月まで一緒に服役していた東京都新宿区富久町の市ヶ谷監獄の跡。朴烈夫妻は、ここに収監されている間、天皇制の虚構性について、日本の法曹界と熾烈な法廷論争を繰り広げた。

朴烈はこの刑務所では、自身の思想を含蓄した『日本の権力者に与える』をはじめ、『私の宣言』と『陰謀論』などの文を書いた。金子も、ここで原稿用紙3,000枚にも及ぶ自叙伝『何が私をそうさせたか』を書き、200編に至る短歌を残しもした。金子が東京の北、栃木刑務所に移送される1カ月前の1926年3月、2人は市ヶ谷監獄で区役所に婚姻届を出すことで、正式な夫婦になった。

新宿駅の東から15分ほど『監獄通り』と呼ばれる狭い路地に沿って歩くと、市ヶ谷監獄の跡地を探せた。今は、区立の児童用遊び場や小公園になっている。休日を迎え、公園を散歩する高齢者1〜2人を除けば、人影もまばらだが、ある隅っこに1964年日本弁護士連合会が建てた『刑死者慰霊塔』が、ここが監獄の跡だったことを教えてくれる。

朴烈夫妻が投獄されたこの監獄で、1932年の裕仁天皇の暗殺を試みた李奉昌義士、1924年の皇居に爆弾を投げた金祉燮義士が殉国した。多くの日本人がまだ、"日本固有の制度である天皇制に対して、外部から何の関係か?"と反論するが、裕仁の戦争責任を問うことも依然とタブー視する日本の現実を思い浮かべれば、この寂しい監獄の跡は全体主義と結合した天皇制が、どのような悲劇を産むかについて、あれこれとして想いに浸らせる。

朴烈と金子が同居し、23人の韓日無政府主義者たちの集まり「不逞社」が本拠地とした場所の2階建ての借家は、新宿から地下鉄で10分の距離にある代々木にある。幹線道路である山手通りの北西部地域に、朴烈と金子がいた当時には都市の貧民たちが集まって住む所だった。

今は、中産階級の綺麗なマンションが並ぶが、丘と丘の間に位置した低地帯で日当たりも悪く、頻繁な雨で湿気に溢れているのは、その時も今も同じという。「不逞社」の表札を掲げ、壁には「反逆」という文字を刻んだ昔の家は消えたが、1923年9月1日大地震が起きると朴烈と文子が、余震を避けて野宿したという丘は当時の姿のままに残り、悲劇に終わった二人の事情を黙って証言している。

20世紀初頭の日本のアナキズムを研究している■■は、"朴烈が追求したアナキズムは、個人の価値を重視するために、社会主義や共産主義のように勢力が大きくはなかったが、朝鮮の独立運動家や日本の進歩主義者たちに大きな影響を与えた"と述べた。




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監獄通りの入口

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曲り角が公園になっていました


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市ヶ谷監獄処刑場辺り


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豊多摩刑務所表門

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不逞社跡地辺り



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正則英語学校

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有楽町辺り省線高架煉瓦

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有楽町社会主義おでん屋を偲んで、高架近くのおでん屋


金子文子 『季刊 戦争責任』付録「レッツ」掲載原稿

侵略と社会主義者への弾圧
 金子文子は一九〇三年、横浜に生まれ山梨県諏訪村の母方の祖父母の家で育ちました。金子が生まれてからすぐに「帝国」日本は日露戦争を起こし朝鮮や中国の民衆を苦しめます。
 戦争直前の一九〇三年、堺利彦、幸徳秋水ら平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめました。この初期社会主義者たちは隣国の独立を侵犯しようとする政府に対して一九〇七年七月二一日に決議を発しました。大韓帝国軍の解体がまさにすすめられていた時です。「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」。
 強権の政府の否定、すなわち天皇を中心とした大日本帝国を否定する理念が社会主義者や日本の民衆、アジアの活動家に広がることを政府は恐れました。
そしてアジアの民衆と連帯しようとした社会主義者たちを一掃しようと企図し一九〇八年六月、「無政府共産」の赤旗を掲げて街頭に出ようとした大杉栄、荒畑寒村、堺利彦らを弾圧し監獄に送りました。
一九一〇年五月、六月には幸徳秋水をはじめとした二六名を大逆罪で弾圧し、八月には大韓帝国を強制併合、幸徳らには翌年一月に死刑判決、一二人を処刑するという日本の社会主義者への大弾圧の中、朝鮮半島への侵略を本格化させました。今年はその時から百年を迎えます。




金子文子 獄中手記『何が私をかうさせたか』表紙
 芙江で過ごした十代
 この侵略・占領が本格化した時代、一九一二年の秋から金子文子は朝鮮、芙江の地で過ごしました。九歳から一六歳までの多感で自己を確立し得る年齢でした。幼くして父親から虐待を受け、実母からは充分な保護を受けられず朝鮮に住む父方の祖母とその身内の家に養子に出されました。

 そこでも家事労働を強制され精神的、肉体的に虐待を受けました。金子は「帝国」日本が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受しました。両親から見離された体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘しました。
 金子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みました。しかし寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され思いとどまり「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰します。
 そして一九一九年の三・一独立運動を目撃し「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」と後に予審法廷で回想し述べます。《一九二四年一月二三日第四回訊問調書》

これは金子の意思が凝縮された表現です。囚われても国家へ叛逆する意思を持続していました。金子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』で存分に語り、その記述に同書の四分の一をあてています。
朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々の回想です。大審院判決の理由においてすら「………私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め……」と断定されています
金子文子の表現
 金子が表現した文章で現在読むことができるのは獄外の活動期では僅かに短信だけです。獄中に囚われてからその死に至るまで多くの文章が遺されていますが、予審判事、官憲による管理下で書かれたということが前提になります。
 しかし公判記録が外部に安直には出ないだろうという判断、また大逆罪でフレームアップするという意図が働いた可能性が大きいと思いますが予審調書では天皇国家批判が直截的に述べられ、書記により記録されています。
 獄中手記である「自伝」は朴烈と出会うところで完結させられ、なおかつ獄外に出されたときは、官憲による原稿の切り取りがあったことを同志栗原一夫が証言しています。
 
 

 社会主義との出会い
 金子は一九一九年四月一二日、朝鮮を去り山梨に戻ります。
一九二〇年四月、一七歳の春、自分の意志で勉学のために東京に出ます。
 一九二〇年から日本の経済が悪化し始めます。二月には八幡製鉄所で熔鉱炉の火を止めた大争議が起きています。そして記念すべき屋外でのメーデーが一日ずらして五月二日に上野で開催されます。この時期に金子は苦学し、仕事も転々とせざるを得ませんでした。
 一九二一年一一月、金子は社会主義者が集る日比谷の小料理屋、通称「岩崎おでん屋」の女給として住込みで働き、通っていた正則英語学校は夜学に切替えます。そこで後に同志となる新山初代と知り合います。少女期より擁していた自立に向けた意思は唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの出会いを経ていっそう強まり、後の究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながります。
 
 同志、朴烈との出会い
 朴烈は三・一独立運動に参加し弾圧を避けるため日本に来ます。そして独立のための活動も本格的になり一九二一年一一月には当時、勉学や労働のため東京で生活をしていた朝鮮人の共産主義者やアナキトの活動家と共に黒濤会という団体を結成します。朝鮮の人々による社会主義グループの結成は初めてになります。金子と朴烈の交友範囲が重なって来ました。
 

            朴烈の肖像
 運動誌の発行
 やがて黒濤会が分裂、朴烈を中心として黒友会が発足します。金子文子、朴烈は運動誌『太い鮮人』(差別・弾圧的な呼称である不逞鮮人をもじったネーミングです)の創刊号を一一月に発行します。枠外に「フテイ鮮人」と記載されています。第三号からタイトルは官憲の介入によって『現社会』と改題せざるを得ませんでした。金子は三・一独立運動を記念して「在日朝鮮人諸君に」と「朝鮮□□記念日」という記事を書いているのですが、全て活字がつぶされている上に筆で墨塗りがされどのような表現をしているのかは、全く読み取れません。
 

 不逞社
 一九二三年三月末ころ二人は東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷に移り、不逞社というアナキズムに関心がある朝鮮と日本の活動者グループをたちあげます。黒友会にも加入している同志も参加しました。
夏になり朴烈の幻に終わった爆弾入手計画が同志たちの間で顕在化しグループ内に齟齬が生じ始めます。新山初代、金重漢、洪鎮裕らは大杉栄周辺の会合にも参加し始めています。この渦中に関東大震災に遭遇します。
 
 関東大震災と弾圧
 九月三日、朴烈と金子は代々木富ヶ谷の借家から行政執行法第一条「救護を要すると認むる者に対し必要なる検束を加ふ」により検束されます。不逞社の同志も順次検束されます。
 震災後、デマゴギーをもとに国家・民衆による朝鮮人に対する虐殺がおきます。また社会主義者も国家権力に虐殺されます。その状況下、勾留され続けた不逞社のメンバーは一〇月二〇日、治安警察法違反で「予審請求」されます。不逞社が秘密結社に該当するという容疑で『大阪朝日』新聞は見出しに〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉と報じます。当初は不逞社全体へのフレームアップが企図されたことが示されています。しかし秘密結社とするのは無理があること、金子と朴烈が「大逆罪」を「認め」る状況で他の同志は一年前後の拘留で予審免訴になり「釈放」になりました。
 天皇批判
 二四年五月一四日の第一二回予審訊問で金子は天皇国家批判を展開します。「人間は人間として平等であらねば為りませぬ。…万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。 …」。
 一九二五年五月三〇日の第二〇回訊問で予審判事沼義雄は「刑法第七三条皇室に対する罪に当る様にも思えるので、そういう事であれば事重大であり、管轄も大審院の管轄になる事となるから、…皇太子殿下の御結婚を期し殿下に危害を加えることは計画していたことは違いないか」と問い、金子は「そうです」と答えます。

 刑法七三条
一九〇八年一〇月より施行された七三条は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という単純な条文で全て死刑と規定しています。刑法の体系の中では七三条と後ろの条文ですが、大日本帝国憲法を頂点とした法制度の中で実体的に天皇やそれを中心とした国家体制へ異議をとなえる人々を縛るものとして存在していました。また本来は最終の裁判所である大審院のみで審理を行うという一審制で、更なる審理は認められず、実行行為と共に「危害」への意思をも裁く内容は幸徳事件に象徴されるように社会主義者へのフレームアップの温床となる条文でした。
二人の弁護人布施辰治は『事件』に対して「最大最悪の不敬罪であって、大逆の犯人とはならない」と『運命の勝利者朴烈』において回想しています。金子は予審訊問において自らの考えを主張しています。それは究極の平等主義であり、大日本帝国が天皇を神格化し権力を維持するため、いかに民衆を欺いているかを明らかにする内容でした。そしてあらゆる権力の否定という主張に結びつくわけですが、その思想形成には生い立ちと朝鮮での生活体験が大きく影響しています。
 
 大審院、死刑判決
 一九二五年一〇月二八日、大審院は刑法七三条での公判開始を決定します。
大審院における第一回公判で述べた内容を元にした手記「二月二十六日夜半」を読むと、朴烈への愛情は確たるものでも金子は冷静に活動と生活を振り返えり、自己分析できる力があったことが判ります。
朴烈は同居後の一九二二年一一月、朝鮮へ講演のため戻った際に「義烈団」のメンバーに爆弾の入手を依頼します。ただ使用目的は明確ではありません。この入手計画は頓挫するのですが予審調書では天皇、皇太子が目標と述べてしまいます。しかし具体的計画は詰められてなく爆弾入手を優先とした成り行き次第の行動でした。
続けて、一九二三年春に朝鮮から来訪し不逞社に参加した金重漢に依頼をします。しかし夏になり依頼を取り消します。
金子が「承知」していた爆弾入手計画は義烈団関係だけですが予審調書では金重漢への件も「承知」していたと認めてしまいます。
 金子は皇太子の結婚式が目標と、承知していなかった金重漢の爆弾依頼と使用目的まで予審判事に誘導され、調書上は「具体的」に語ってしまいます。
 しかし一九二六年二月二六日の大審院第一回公判における陳述では承知していた義烈団関連の爆弾入手計画が流れたことを知った時に「これでよかった」という気持ちを持ったこと、その気持ちを朴烈に伝えなかったことを「後悔」したこと、予審で認めた金重漢への入手依頼計画を実は知らなかったこと、知っていれば反対したことを述べます。大審院判決では、この部分は否定され金重漢への入手依頼計画を承知していたと認定されてしまいます。
 三月二五日、大審院牧野裁判長により死刑判決が出され、金子も大逆の意思を有していたと大審院での意見表明も有罪の根拠にされてしまいます。内閣は無期懲役に減刑するという政治的判断を出します。四月五日、減刑が金子、朴烈に通知され八日、金子は宇都宮刑務所栃木市支所に送られます。

 独房での死
 七月二三日、看守により金子の遺体が独房で発見されます。
 宇都宮刑務所栃木支所は遺体をすぐに刑務所の共同墓地に埋葬し、全てを塀の中だけで進めました。母親から連絡を受け「縊死」という発表に疑問をもった布施辰治弁護士と同志たちは仲間の馬島医師を同行し検分のための遺体の発掘と引渡しを追求します。七月三一日に馬島医師が検分しますが死後七日前後も経て正確な検分は困難であり死因は曖昧なまま火葬せざるを得ませんでした。




    金子文子肖像と追悼記事『自由連合新聞』掲載



 遺骨の行方
 八月一日午前五時ごろ栃木に同行した同志金正根が布施弁護士宅から遺骨を秘密裡に持出し移動し追悼会を行います。警視庁は遺骨の移動を見逃し出し抜かれました。
八月一五日、金子の追悼会に関与したと見られる椋本運雄、栗原一男、金正根は警視庁に拘束されたまま朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ大邱に送られます。
八月一六日、朴烈の兄朴廷植は金子の遺骨を引取るため東京に着きます。しかし朝鮮の同志たちによる追悼会を開かせないため警視庁から遺骨は引渡されず朝鮮の警察に小包で送られ一一月の埋葬まで聞慶警察署に「保管」されます。                     
一一月四日、埋葬に官憲から条件がつけられます。遺骨を「朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある」という理由からです。埋葬は秘密にする、祀は当局の通知するまでは行はぬ、関係者以外を絶対に入れぬこと、されます。一二月一三日、金子の墓は駐在所の厳重監視下にあるも遺骨発掘のおそれはないと『京城日報』は報道、見出しは《訪ふ人もない金子文子の墓、聞えるものは鳥の声ばかり発掘の憂更になし》と報じています。「帝国」日本の侵略を補完する朝鮮で発行されていた日本語新聞は官憲の動向を詳細に伝え、大逆「犯」金子の死後も追悼を一切させないという官憲の意図を反映した報道を続けました。


同志たちの死
刑死者は出ませんでしたが不逞社、黒友会へ関わった同志たちが過酷な獄中生活を経て病死しました。新山初代は危篤状態で釈放され一一月二七日未明死去、二二歳でした。洪鎭祐は不逞社、黒友会に参加していましたが治安維持法事件で服役中に病が重くなり、京城大学病院にて一九二八年五月一八日に死去します。三二歳でした。金正根は真友連盟事件で五カ年の懲役判決を受け大邱監獄にて服役中、肺の病で出獄を認められ一九二八年八月六日、死去しました。三九歳でした。
また『高等警察要史』は不逞社の徐東星の名を繰り返し挙げています。大邱に戻り読書会、交流団体である真友連盟を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付け、すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのです。
「帝国」日本の一九二〇年代の中国東北部への侵略と共に朝鮮民衆の抵抗、金子文子の叛逆の生き方の影響を受けた朝鮮独立運動家の東アジアにおける展開を弾圧するため治安維持法を「帝国」本国より過酷に適用したわけです。

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金子文子の生き方


2008年8月 金子文子の墓碑訪問
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『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト
by 1911124 | 2010-04-29 19:01
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