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朝鮮独立運動家が処刑された10月10日 

 10月10日は当時の新聞にも大きく「事件」「裁判」として報道されているが二人の朝鮮独立活動家が、処刑された日である。
 1928年、1932年と時代は異なるが、いずれも刑法の73条いわゆる大逆罪、75条の皇室に対する罪に問われている。攻撃対象となった当人たちは無傷である。量刑が死刑しかない刑法73条、死刑と無期懲役の75条に付されたことによる。

 現行刑法から1947年にようやく削除。景福宮に乱入し閔妃を殺害した日本人側の襲撃者が、予審段階で
<裁判にもかけられていない。現在でいえば「取調べ」段階である。裁判と勘違いをする方がいるので注意>で免訴になった事とは大きな違いがある。一九二八年五月一四日、朝鮮の独立活動家、チョ・ミョンハ(趙明河)は台湾、台中で天皇の義父、久邇宮邦彦を短刀により襲撃するも失敗に終わり逮捕された。台北高等法院上告部で七月七日に公判が開かれ、事実調べ、検事論告、弁論が行われ結審をした。
金子裁判長は同年七月一八日、刑法七五条<皇室に関する罪>前段を適用し死刑判決を出した。
一〇月一〇日、台北監獄にて処刑された。(記事解禁後の「朝日新聞」による)
 あえて死刑の前段を適用したのは過酷な弾圧である。

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 一九三二年一月八日、警視庁前から桜田門に天皇ヒロヒトの馬車が通過せんとしたときイ・ボンチャン(李奉昌)が爆弾を投げつけた。宮内大臣乗用の馬車の後車輪付近に落ちて馬車に軽微の損傷を与えた。
 イ・ボンチャンは、上海の韓国臨時政府の重鎮で韓人愛国団長の金九を訪ね天皇打倒の決意を語っていた。東京に向かう前年の一二月に愛国団に加入した。

 一九三二年六月三〇日に予審終結、大審院は七月一九日に審理に付すことを決定。九月一六日に即日結審、三〇日に死刑判決を出し、十日後の一〇月一〇日午前九時市ヶ谷刑務所にて処刑された。

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大逆罪弾圧と日本のアジア侵略は不可分の関係である。侵略された被植民地の独立活動家の少なからずは日帝、
日本の天皇を攻撃目標としていた。

 朝鮮の独立活動家シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」(一九二三年一月)には日本天皇を攻撃、打倒目標として明確に掲げていた。独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言している。大審院が翻訳させた全文から一部を引用する。

全文はタイピングをして次のブログにアップしています。韓国語は画像 


「革命の記録は必ず惨絶壮絶然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
 一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切施設物」と打倒目標を掲げている。
(念のため補足。全文は引用できないが、革命宣言は自民族、社会の革命が本質である。日帝打倒、あるいは官憲、売国奴打倒は建設のための破戒としている。第四、第五を転載しておく)
【第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。】
 それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、それらの限界を越える内容である。
 アン・ジュングンの「伊藤博文の罪」は、1905年の乙巳・ウルサ条約強制直後の11月20日付『皇城・ファンソン新聞』に張志淵・チャンジヨンが「是日也放声大哭」を掲載、その伊藤博文批判、<「保護」の五条約が東洋三国の分裂する兆候>や崔益鉉チエイッキョン・の「棄信背義十六罪」の「継承」であり、アンジュングンの「東洋平和論」は帝政や国権、日本の軍隊の存在を前提とした主張である。
(岩波書店刊の雑誌『世界』10月号がアンジュングンの「東洋平和論」を漢文からの新訳として掲載しているが、単に遺稿としての「東洋平和論」の紹介であり、訊問調書、判決後に旅順監獄で聴取された「陳述」での東洋平和論の紹介はされなく、また全く触れられていない。論文タイトルに誘導されたままの限定された東洋平和論の掲載である。)1906年6月に蜂起した崔益鉉は「棄信背義十六罪」の問罪状を日本に送っている。
「韓国の独立・自主の明言、信を破り韓国を不法に侵害、甲申政変、王宮占領、閔妃殺害、乙巳条約にいたる十六項目を列挙」
日本が棄信背義を謝罪、韓国支配を止めることを求め、そのうえで東洋平和のための韓日清三国の協力の必要を説く」『韓国併合』海野福寿、1995年、169頁
 また二・八「宣言書」は生存権での闘争は主張しているが全体は理念的という限界がある。【わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり、最後の一人に至るまで必ずや自由のために熱血をそそぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが民族は一兵も持っていない。わが民族は兵力をもって日本に抵抗する実力はない。しかしながら、日本がもしわが民族の正当な要求に応じなければ、わが民族は日本に対し永遠の血戦を宣布せざるを得ない。わが民族は高度の文化を持ってからすでに久しい。そしてまた半万年にわたる国家生活の経験を持っている。たとえ多年の専制政治の害毒と境遇の不幸がわが民族の今日を招いたものであるにせよ、今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであろう。】
三・一独立宣言の眼目は公約三章にあるが、「一、正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求、自由の精神を発揮、排他的感情になるな。二、最期の一人、一刻まで民族の正当な意思を発表せよ。
三、行動は秩序を尊重し主張と態度を公明正大にやろう、
と行動の指針を示し「日帝に奪われた国権と民族の自由の回復、自主の精神を全世界に見せる」
と抽象的である。
 台湾や朝鮮を侵略し植民地支配していた日本帝国主義は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。
「朝鮮革命宣言」を公表、配布をすれば不敬罪の対象となりまた、その主張に同意をすれば大逆罪、刑法七三条の容疑にて弾圧されるのは必定であった。
 天皇を神格化した大日本帝国憲法のもと刑法七三条は
一九〇八年一〇月に旧刑法の改変にともない整えられた。条文は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。

<『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』
              森長栄三郎発行より抜粋>

≪鍛冶橋監獄署、東京監獄沿革≫

「警視庁監獄署は元鍛冶橋内監倉事務取扱所と称し、八重州町に在り…1870年12月の創設……1874年12月、竣工、称して鍛冶橋監獄……1903年3月、警視庁官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は司法大臣の管理、警視庁第四部直轄たりし鍛冶橋監獄も独立して東京監獄と改称、これより先1901年4月、牛込区富久町113番地に19000坪弱の地に未決監仮建築の工を起こす、1904年3月31日、建坪2700坪、303房に区画、1903年6月25日、鍛冶橋より移転、東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれ1905年5月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……1922年10月13日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれ……震災で被害を受けたが1926年には復旧完成……1937年5月25日、池袋駅近くの東京拘置所が落成するとともに市ヶ谷刑務所はなくなった。……ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことである。幸徳秋水らが東京監獄から発信したものをみると「市ヶ谷富久町113」になっている。しかし、刑場跡の一帯は富久町66番地であったという。1950年から刑場跡余丁町88番地の一隅と言うことになった。おそらく東京監獄ができる前の町名番地が復活したものであろう。1949年頃、刑場跡の場所が富久児童遊園となった。………

補足
 アン・ジュングンが義兵闘争に向かっていた時代に東アジアにおける社会主義者の活動は如何なるものであったか。他の執筆論文から一部転載をしておく。

「社会主義者の連帯「亜州和親会」
伊藤博文が殺される二年前、一九〇七年夏には東京にてインド、中国の活動家を中心にした「亜州和親会」が発足し安南、フィリピンの活動家も加わり会合、研究会には日本の社会主義者も参加、後に朝鮮の独立運動家も加わった。
その理念は中国の社会主義者、劉志培が同年一一月に執筆した「亜州現勢論」(『天義』一一・一二号合冊号に中国語で掲載)に著されている。
「私はさらにアジアの被圧迫民族に次の二つのことを望みたい。
一 同時に独立すること    
二 政府を設けないこと
独立後は無政府の制度を行ない、人民大同の思想を用いて、あるいはバクーニンの連邦主義を採用し、あるいはクロポトキンの自由連合の説を実行して、人民の幸福を永遠に維持できるようにしなければならない。これが被圧迫民族の人民が知らねばならぬことの二つである」としている。
アン・ジュングンが『東洋平和論』の執筆時に「亜州和親会」や「亜州現勢論」を認識していたかは定かではないが、東アジアにおいて日帝が侵略を拡大せんとする時期に民衆の側は日本の社会主義者も含めて東京にて連帯と帝国主義に対する闘いを模索していた。
そしてそれまで朝鮮侵略に対する見解があいまいであった日本の社会主義者たちは一九〇七年七月二一日に決議を発した。
『東京社会主義有志者決議』
「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」
 この決議は直接行動派と議会政策派の両派の機関紙『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。

知られざる革命家ジョ・ソアン
日本政治史の研究者であるイ・キョンソクさんは『平民社における階級と民族』において、理論的に対立をしていた両派が同一に「決議」を行った背景にはアジアの革命家とくに朝鮮人の存在が大きく、抗議と要求があったと論究をしている。とくにジョ・ソアン(趙素昴)の活動に焦点をあてている。
 イ・キョンソクさんの研究によるとジョ・ソアンは一八八年生まれ。一九〇四年に日本留学し〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に戻り九月三日に再び東京に来る。〇九年一二月、親日派の売国的行為に対して国民世論を喚起し宣言書を起草し掲載した『大韓興学報』は停刊処分を受けた。
一九一三年上海亡命、アジア連帯、無政府主義の実践とも見える行動を起こした。亡命動機に「亜細亜弱小民族反日大同党」の結成にあったとしている。
 一六年にジョ・ソアンは再び上海に亡命「大同党」の結成を推進したが進捗せず、満州、沿海洲の朝鮮独立運動家との接触に奔走。後に「三均学会」がある。一九三〇年代に「三均主義」を理論化。それは「朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる」とジョ・ソアンの活動を記述している。

弾圧による社会主義活動の後退
 アジアにおける社会主義思想を軸にした東京での連帯活動は長くは続かなかった。〇八年一月の金曜会の講演会への弾圧、大杉栄、堺利彦らが実刑判決を受けた六月の「赤旗事件」(無政府共産を縫いこんだ旗を錦輝館から掲げて街頭に出ようとした際に官憲から弾圧を受ける)で連帯は分断された。
 さらに朝鮮侵略が本格化した二年後、アン・ジュングンの処刑の年に幸徳たちにかけられた大逆罪適用は日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧であった。
 その幸徳秋水を含め一二人が処刑された大逆罪弾圧からも二年後には百年を迎える」


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by 1911124 | 2009-10-10 07:13 | 韓日歴史
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