大逆事件百年、書評

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図書新聞掲載号リンク

近代日本の曲がり角には朝鮮がある


大杉栄『日本脱出記』


金正勲『漱石と朝鮮』
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# by 1911124 | 2011-03-19 00:26

倉見山 2010年5月29日

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流木・土石流留め?
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厄神社 古木
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帰途によった谷保駅近くの「かけこみ亭」
ぼけ丸さん
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国分寺エクスペリエンス

おちょこさん
たまたまプライベート・ライブコンサートの日でした
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# by 1911124 | 2010-05-29 06:47

信濃デッサン館

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# by 1911124 | 2010-05-10 16:10

金子文子の足跡「韓国日報」特集記事

 4月29日、韓国日報の記者から研究に対する取材とフィールドワークの案内を依頼された。
以下はその記者の記事本文翻訳である。当日の通訳と記事翻訳は

『韓国日報』原文サイト 2010.5.11

国境を超越したアナキストの愛
死の前でも'天皇制'に全身で抗う
天皇爆殺謀議し捕らえられ、死刑判決を受けた後、夫婦のきずな
朴烈、23年間服役後釈放、金子は獄中で謎の自殺...
二人が求めたアナキズム、独立運動家たちに大きな影響
1926年2月26日午前、東京最高裁大法廷。制服姿の警官150人と憲兵30人が裁判所の内外を統制する物々しい雰囲気の中で1人の朝鮮人男性と日本人女性が被告席に座った。

男は白い絹の下地に紫色を帯びた上着とねずみ色のズボンを履き、腰には鶴を刻んだ角帯を締めていた。女性も、白い絹のチョゴリを着て、頭に飾りを2つ差し込む端正な姿だった。朝鮮式の衣服を着用することで、日本帝国主義の法廷に向かって無言の抗議を表示した被告人たちは朴烈(1902〜1974)と彼の妻金子文子(1903〜1926)だった。

彼らの容疑は、刑法第73条と爆発物取締罰則違反。日帝の刑法第73条は王、王妃、皇太子、王継孫に危害を加えようとすると、死刑に処するという、いわゆる大逆罪だった。証拠もなく、爆発物テロの対象と日付も明示できない粗末な起訴だったが、3月25日の決審公判で大逆罪の朴烈夫妻には、死刑判決が下された。しかし、彼らは死を前にしても堂々としていた。退廷する判事にむかって朴烈は、"裁判は、卑劣な芝居だ!"と叫んだ。金子文子は、"万歳"を叫び、天皇制国家日本を嘲弄した。

日帝強占期に韓国人の民族解放運動を指導する理念としては民族主義と共産主義を選ぶが、第3の思想、アナキズムも見逃すことができない。よく『無政府主義』と翻訳されるアナキズムは、個人的自我の解放と自律性を主張し、民衆を搾取するすべての権力を否定する。
アナキストたちは右派民族主義はもちろん、党に権力が集中する共産主義も批判と敬遠の対象とした。 申采浩、李会栄、曺奉岩ら、非常に有名な人物がアナキズムの洗礼を受けたり、これを積極的に支持した。

朴烈は慶北聞慶(ムンギョン)出身で、京城高補へ入学、3ㆍ1運動に参加した後、弾圧を避けて東京に渡り、日本で差別される朝鮮人の現実を暴露する先頭に立った。在日留学生、日本人のアナキストたちと意気投合し、[黒涛会]「不逞社」などの会を創設した後、天皇家にたいする爆弾テロを謀議した。

万物絶滅を主張した彼のアナキズムが虚無主義に貶されたのも事実だ。しかし、朴烈は法廷の陳述で、自身の理念を"消極的には、私一人の人生を否定するものであり、積極的には、地上にあるすべての権力の打倒が究極の目的"だと陳述したが、これは彼のアナキズムが個人の犠牲を通して社会を救うという、殺身成仁の性格を持っていることを証明する。

彼は1923年9月拘束され死刑判決を受けたが無期懲役に減刑、1945年10月秋田刑務所から釈放されるまで、23年間服役した。これは第二次世界大戦以前の日本では、単一事件としては最長の収監記録だ。朴烈は韓国戦争当時拉致され、1974年北朝鮮で死亡し、1989年抗日闘争の功労から大韓民国建国勲章大統領杖が追叙された。

日本の横浜で、非嫡出子として生まれた金子文子は、親や親戚から虐待を受け、朝鮮で6年間生活し、植民地の人たちの痛みを体験した後、アナキズムに傾倒した。彼は朴烈と同居し、朝鮮の解放と天皇制の廃止を主張して、23の齢で獄中で謎の自殺で生を終えた人物だ。

彼女の生は試練の連続だったが、それは権力との対決という、彼女の確信をさらに固めた。日本人の判事は裁判過程で、"なぜ日本人である貴女が朝鮮人の肩を持つのか"と、何度も転向を強要したが、彼女は"私は権力の前に膝まずいて生きるよりは、むしろ喜んで死んで、最後まで自分自身の内面的欲求に従う。決して恐れないだろう"と述べた。

朴烈と金子文子の痕跡を訪ねて出た先月29日、皮肉なことに日本の祝日である昭和の日だった。裕仁前日本の天皇の誕生日だ。

一番最初に訪ねたのは朴烈と金子文子が逮捕され、1923年9月から1926年4月まで一緒に服役していた東京都新宿区富久町の市ヶ谷監獄の跡。朴烈夫妻は、ここに収監されている間、天皇制の虚構性について、日本の法曹界と熾烈な法廷論争を繰り広げた。

朴烈はこの刑務所では、自身の思想を含蓄した『日本の権力者に与える』をはじめ、『私の宣言』と『陰謀論』などの文を書いた。金子も、ここで原稿用紙3,000枚にも及ぶ自叙伝『何が私をそうさせたか』を書き、200編に至る短歌を残しもした。金子が東京の北、栃木刑務所に移送される1カ月前の1926年3月、2人は市ヶ谷監獄で区役所に婚姻届を出すことで、正式な夫婦になった。

新宿駅の東から15分ほど『監獄通り』と呼ばれる狭い路地に沿って歩くと、市ヶ谷監獄の跡地を探せた。今は、区立の児童用遊び場や小公園になっている。休日を迎え、公園を散歩する高齢者1〜2人を除けば、人影もまばらだが、ある隅っこに1964年日本弁護士連合会が建てた『刑死者慰霊塔』が、ここが監獄の跡だったことを教えてくれる。

朴烈夫妻が投獄されたこの監獄で、1932年の裕仁天皇の暗殺を試みた李奉昌義士、1924年の皇居に爆弾を投げた金祉燮義士が殉国した。多くの日本人がまだ、"日本固有の制度である天皇制に対して、外部から何の関係か?"と反論するが、裕仁の戦争責任を問うことも依然とタブー視する日本の現実を思い浮かべれば、この寂しい監獄の跡は全体主義と結合した天皇制が、どのような悲劇を産むかについて、あれこれとして想いに浸らせる。

朴烈と金子が同居し、23人の韓日無政府主義者たちの集まり「不逞社」が本拠地とした場所の2階建ての借家は、新宿から地下鉄で10分の距離にある代々木にある。幹線道路である山手通りの北西部地域に、朴烈と金子がいた当時には都市の貧民たちが集まって住む所だった。

今は、中産階級の綺麗なマンションが並ぶが、丘と丘の間に位置した低地帯で日当たりも悪く、頻繁な雨で湿気に溢れているのは、その時も今も同じという。「不逞社」の表札を掲げ、壁には「反逆」という文字を刻んだ昔の家は消えたが、1923年9月1日大地震が起きると朴烈と文子が、余震を避けて野宿したという丘は当時の姿のままに残り、悲劇に終わった二人の事情を黙って証言している。

20世紀初頭の日本のアナキズムを研究している■■は、"朴烈が追求したアナキズムは、個人の価値を重視するために、社会主義や共産主義のように勢力が大きくはなかったが、朝鮮の独立運動家や日本の進歩主義者たちに大きな影響を与えた"と述べた。




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監獄通りの入口

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曲り角が公園になっていました


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市ヶ谷監獄処刑場辺り


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豊多摩刑務所表門

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不逞社跡地辺り



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正則英語学校

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有楽町辺り省線高架煉瓦

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有楽町社会主義おでん屋を偲んで、高架近くのおでん屋


金子文子 『季刊 戦争責任』付録「レッツ」掲載原稿

侵略と社会主義者への弾圧
 金子文子は一九〇三年、横浜に生まれ山梨県諏訪村の母方の祖父母の家で育ちました。金子が生まれてからすぐに「帝国」日本は日露戦争を起こし朝鮮や中国の民衆を苦しめます。
 戦争直前の一九〇三年、堺利彦、幸徳秋水ら平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめました。この初期社会主義者たちは隣国の独立を侵犯しようとする政府に対して一九〇七年七月二一日に決議を発しました。大韓帝国軍の解体がまさにすすめられていた時です。「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」。
 強権の政府の否定、すなわち天皇を中心とした大日本帝国を否定する理念が社会主義者や日本の民衆、アジアの活動家に広がることを政府は恐れました。
そしてアジアの民衆と連帯しようとした社会主義者たちを一掃しようと企図し一九〇八年六月、「無政府共産」の赤旗を掲げて街頭に出ようとした大杉栄、荒畑寒村、堺利彦らを弾圧し監獄に送りました。
一九一〇年五月、六月には幸徳秋水をはじめとした二六名を大逆罪で弾圧し、八月には大韓帝国を強制併合、幸徳らには翌年一月に死刑判決、一二人を処刑するという日本の社会主義者への大弾圧の中、朝鮮半島への侵略を本格化させました。今年はその時から百年を迎えます。




金子文子 獄中手記『何が私をかうさせたか』表紙
 芙江で過ごした十代
 この侵略・占領が本格化した時代、一九一二年の秋から金子文子は朝鮮、芙江の地で過ごしました。九歳から一六歳までの多感で自己を確立し得る年齢でした。幼くして父親から虐待を受け、実母からは充分な保護を受けられず朝鮮に住む父方の祖母とその身内の家に養子に出されました。

 そこでも家事労働を強制され精神的、肉体的に虐待を受けました。金子は「帝国」日本が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受しました。両親から見離された体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘しました。
 金子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みました。しかし寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され思いとどまり「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰します。
 そして一九一九年の三・一独立運動を目撃し「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」と後に予審法廷で回想し述べます。《一九二四年一月二三日第四回訊問調書》

これは金子の意思が凝縮された表現です。囚われても国家へ叛逆する意思を持続していました。金子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』で存分に語り、その記述に同書の四分の一をあてています。
朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々の回想です。大審院判決の理由においてすら「………私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め……」と断定されています
金子文子の表現
 金子が表現した文章で現在読むことができるのは獄外の活動期では僅かに短信だけです。獄中に囚われてからその死に至るまで多くの文章が遺されていますが、予審判事、官憲による管理下で書かれたということが前提になります。
 しかし公判記録が外部に安直には出ないだろうという判断、また大逆罪でフレームアップするという意図が働いた可能性が大きいと思いますが予審調書では天皇国家批判が直截的に述べられ、書記により記録されています。
 獄中手記である「自伝」は朴烈と出会うところで完結させられ、なおかつ獄外に出されたときは、官憲による原稿の切り取りがあったことを同志栗原一夫が証言しています。
 
 

 社会主義との出会い
 金子は一九一九年四月一二日、朝鮮を去り山梨に戻ります。
一九二〇年四月、一七歳の春、自分の意志で勉学のために東京に出ます。
 一九二〇年から日本の経済が悪化し始めます。二月には八幡製鉄所で熔鉱炉の火を止めた大争議が起きています。そして記念すべき屋外でのメーデーが一日ずらして五月二日に上野で開催されます。この時期に金子は苦学し、仕事も転々とせざるを得ませんでした。
 一九二一年一一月、金子は社会主義者が集る日比谷の小料理屋、通称「岩崎おでん屋」の女給として住込みで働き、通っていた正則英語学校は夜学に切替えます。そこで後に同志となる新山初代と知り合います。少女期より擁していた自立に向けた意思は唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの出会いを経ていっそう強まり、後の究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながります。
 
 同志、朴烈との出会い
 朴烈は三・一独立運動に参加し弾圧を避けるため日本に来ます。そして独立のための活動も本格的になり一九二一年一一月には当時、勉学や労働のため東京で生活をしていた朝鮮人の共産主義者やアナキトの活動家と共に黒濤会という団体を結成します。朝鮮の人々による社会主義グループの結成は初めてになります。金子と朴烈の交友範囲が重なって来ました。
 

            朴烈の肖像
 運動誌の発行
 やがて黒濤会が分裂、朴烈を中心として黒友会が発足します。金子文子、朴烈は運動誌『太い鮮人』(差別・弾圧的な呼称である不逞鮮人をもじったネーミングです)の創刊号を一一月に発行します。枠外に「フテイ鮮人」と記載されています。第三号からタイトルは官憲の介入によって『現社会』と改題せざるを得ませんでした。金子は三・一独立運動を記念して「在日朝鮮人諸君に」と「朝鮮□□記念日」という記事を書いているのですが、全て活字がつぶされている上に筆で墨塗りがされどのような表現をしているのかは、全く読み取れません。
 

 不逞社
 一九二三年三月末ころ二人は東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷に移り、不逞社というアナキズムに関心がある朝鮮と日本の活動者グループをたちあげます。黒友会にも加入している同志も参加しました。
夏になり朴烈の幻に終わった爆弾入手計画が同志たちの間で顕在化しグループ内に齟齬が生じ始めます。新山初代、金重漢、洪鎮裕らは大杉栄周辺の会合にも参加し始めています。この渦中に関東大震災に遭遇します。
 
 関東大震災と弾圧
 九月三日、朴烈と金子は代々木富ヶ谷の借家から行政執行法第一条「救護を要すると認むる者に対し必要なる検束を加ふ」により検束されます。不逞社の同志も順次検束されます。
 震災後、デマゴギーをもとに国家・民衆による朝鮮人に対する虐殺がおきます。また社会主義者も国家権力に虐殺されます。その状況下、勾留され続けた不逞社のメンバーは一〇月二〇日、治安警察法違反で「予審請求」されます。不逞社が秘密結社に該当するという容疑で『大阪朝日』新聞は見出しに〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉と報じます。当初は不逞社全体へのフレームアップが企図されたことが示されています。しかし秘密結社とするのは無理があること、金子と朴烈が「大逆罪」を「認め」る状況で他の同志は一年前後の拘留で予審免訴になり「釈放」になりました。
 天皇批判
 二四年五月一四日の第一二回予審訊問で金子は天皇国家批判を展開します。「人間は人間として平等であらねば為りませぬ。…万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。 …」。
 一九二五年五月三〇日の第二〇回訊問で予審判事沼義雄は「刑法第七三条皇室に対する罪に当る様にも思えるので、そういう事であれば事重大であり、管轄も大審院の管轄になる事となるから、…皇太子殿下の御結婚を期し殿下に危害を加えることは計画していたことは違いないか」と問い、金子は「そうです」と答えます。

 刑法七三条
一九〇八年一〇月より施行された七三条は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という単純な条文で全て死刑と規定しています。刑法の体系の中では七三条と後ろの条文ですが、大日本帝国憲法を頂点とした法制度の中で実体的に天皇やそれを中心とした国家体制へ異議をとなえる人々を縛るものとして存在していました。また本来は最終の裁判所である大審院のみで審理を行うという一審制で、更なる審理は認められず、実行行為と共に「危害」への意思をも裁く内容は幸徳事件に象徴されるように社会主義者へのフレームアップの温床となる条文でした。
二人の弁護人布施辰治は『事件』に対して「最大最悪の不敬罪であって、大逆の犯人とはならない」と『運命の勝利者朴烈』において回想しています。金子は予審訊問において自らの考えを主張しています。それは究極の平等主義であり、大日本帝国が天皇を神格化し権力を維持するため、いかに民衆を欺いているかを明らかにする内容でした。そしてあらゆる権力の否定という主張に結びつくわけですが、その思想形成には生い立ちと朝鮮での生活体験が大きく影響しています。
 
 大審院、死刑判決
 一九二五年一〇月二八日、大審院は刑法七三条での公判開始を決定します。
大審院における第一回公判で述べた内容を元にした手記「二月二十六日夜半」を読むと、朴烈への愛情は確たるものでも金子は冷静に活動と生活を振り返えり、自己分析できる力があったことが判ります。
朴烈は同居後の一九二二年一一月、朝鮮へ講演のため戻った際に「義烈団」のメンバーに爆弾の入手を依頼します。ただ使用目的は明確ではありません。この入手計画は頓挫するのですが予審調書では天皇、皇太子が目標と述べてしまいます。しかし具体的計画は詰められてなく爆弾入手を優先とした成り行き次第の行動でした。
続けて、一九二三年春に朝鮮から来訪し不逞社に参加した金重漢に依頼をします。しかし夏になり依頼を取り消します。
金子が「承知」していた爆弾入手計画は義烈団関係だけですが予審調書では金重漢への件も「承知」していたと認めてしまいます。
 金子は皇太子の結婚式が目標と、承知していなかった金重漢の爆弾依頼と使用目的まで予審判事に誘導され、調書上は「具体的」に語ってしまいます。
 しかし一九二六年二月二六日の大審院第一回公判における陳述では承知していた義烈団関連の爆弾入手計画が流れたことを知った時に「これでよかった」という気持ちを持ったこと、その気持ちを朴烈に伝えなかったことを「後悔」したこと、予審で認めた金重漢への入手依頼計画を実は知らなかったこと、知っていれば反対したことを述べます。大審院判決では、この部分は否定され金重漢への入手依頼計画を承知していたと認定されてしまいます。
 三月二五日、大審院牧野裁判長により死刑判決が出され、金子も大逆の意思を有していたと大審院での意見表明も有罪の根拠にされてしまいます。内閣は無期懲役に減刑するという政治的判断を出します。四月五日、減刑が金子、朴烈に通知され八日、金子は宇都宮刑務所栃木市支所に送られます。

 独房での死
 七月二三日、看守により金子の遺体が独房で発見されます。
 宇都宮刑務所栃木支所は遺体をすぐに刑務所の共同墓地に埋葬し、全てを塀の中だけで進めました。母親から連絡を受け「縊死」という発表に疑問をもった布施辰治弁護士と同志たちは仲間の馬島医師を同行し検分のための遺体の発掘と引渡しを追求します。七月三一日に馬島医師が検分しますが死後七日前後も経て正確な検分は困難であり死因は曖昧なまま火葬せざるを得ませんでした。




    金子文子肖像と追悼記事『自由連合新聞』掲載



 遺骨の行方
 八月一日午前五時ごろ栃木に同行した同志金正根が布施弁護士宅から遺骨を秘密裡に持出し移動し追悼会を行います。警視庁は遺骨の移動を見逃し出し抜かれました。
八月一五日、金子の追悼会に関与したと見られる椋本運雄、栗原一男、金正根は警視庁に拘束されたまま朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ大邱に送られます。
八月一六日、朴烈の兄朴廷植は金子の遺骨を引取るため東京に着きます。しかし朝鮮の同志たちによる追悼会を開かせないため警視庁から遺骨は引渡されず朝鮮の警察に小包で送られ一一月の埋葬まで聞慶警察署に「保管」されます。                     
一一月四日、埋葬に官憲から条件がつけられます。遺骨を「朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある」という理由からです。埋葬は秘密にする、祀は当局の通知するまでは行はぬ、関係者以外を絶対に入れぬこと、されます。一二月一三日、金子の墓は駐在所の厳重監視下にあるも遺骨発掘のおそれはないと『京城日報』は報道、見出しは《訪ふ人もない金子文子の墓、聞えるものは鳥の声ばかり発掘の憂更になし》と報じています。「帝国」日本の侵略を補完する朝鮮で発行されていた日本語新聞は官憲の動向を詳細に伝え、大逆「犯」金子の死後も追悼を一切させないという官憲の意図を反映した報道を続けました。


同志たちの死
刑死者は出ませんでしたが不逞社、黒友会へ関わった同志たちが過酷な獄中生活を経て病死しました。新山初代は危篤状態で釈放され一一月二七日未明死去、二二歳でした。洪鎭祐は不逞社、黒友会に参加していましたが治安維持法事件で服役中に病が重くなり、京城大学病院にて一九二八年五月一八日に死去します。三二歳でした。金正根は真友連盟事件で五カ年の懲役判決を受け大邱監獄にて服役中、肺の病で出獄を認められ一九二八年八月六日、死去しました。三九歳でした。
また『高等警察要史』は不逞社の徐東星の名を繰り返し挙げています。大邱に戻り読書会、交流団体である真友連盟を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付け、すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのです。
「帝国」日本の一九二〇年代の中国東北部への侵略と共に朝鮮民衆の抵抗、金子文子の叛逆の生き方の影響を受けた朝鮮独立運動家の東アジアにおける展開を弾圧するため治安維持法を「帝国」本国より過酷に適用したわけです。

運営サイト
金子文子の生き方


2008年8月 金子文子の墓碑訪問
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『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト
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# by 1911124 | 2010-04-29 19:01

図書新聞執筆記事

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# by 1911124 | 2010-04-26 17:41

図書新聞

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# by 1911124 | 2010-04-26 15:01

ペンキ館

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荷風のペンキ館辺り クリックすれば数割増しで大きくなります。


こちらの画像は不鮮明です。
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# by 1911124 | 2010-04-02 18:43

『彷書月刊』4 月号大逆事件特集号

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# by 1911124 | 2010-03-24 17:53

不逞社⇒黒濤社⇒市ヶ谷監獄

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the place is豊多摩郡 代々幡町 147
the house where Fumiko and Park yul lived together.
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the place is豊多摩郡 代々幡町 147
the house where Fumiko and Park yul lived together.


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黒濤社、Kokuto-sha 世田谷區 池尻412 the house where Fumiko and Park yul lived together
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Ichigaya Prison site where Fumiko Kaneko ,Park yul had been confined during trial
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Site where well-known writer Kafu Nagai lived
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Site where well-known writer Souseki Natsume lived
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# by 1911124 | 2010-03-23 02:37

前進座劇場「韓国併合100年写真展」開催

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# by 1911124 | 2010-03-22 03:14

光を扉へひらく封印された悲しみを解くために ピアノコンサート

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「光を扉へひらく 封印された悲しみを解くために」2.28
チェ・ソンエさんピアノコンサートは250人のキャパシティの会場で一ヶ月前に
チケット完売、赤旗日曜版、週刊金曜日の掲載記事で問合せの方々の鑑賞希望を断らざるを得なかったという状況のもと開催されました。
 
 韓国強制併合100年を迎えた今年の関東の独自の企画として、文化的な面からも幅広く、
わたしたちの市民運動を広げて行く方向の中で、写真の置き展示による日本の侵略の歴史、
チェソンエさん自身の企画した光州抗争、富山妙子作品、キムジハなどの表現者たちとの協同した内容、そして自身の父の運動も含め、指紋押捺拒否の闘いの歴史が映像としてまた舞台において富山妙子さんの作品、「自由光州」のインスタレーションも展示で表現され、高橋悠治作品、ショパンの曲と共に演奏されて行きました。
 
 直接的に解放後・「戦後」の在日韓国、朝鮮人が受けた人権侵害
を来場者が学べる環境が設定できたと思います。


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 第2部は主催者である、私たち日韓市民ネット関東の進行
で、事務局スタッフからのスピーチ、会場からの発言を得るという内容でした。
 口火をきってもらった『世界』誌編集長の岡本さんの発言は、や
はり「朝鮮学校の生徒を高校授業料無償化の対象から除外する」という方向に傾いた鳩山へ
の怒りと抗議であり、続けての会場からの発言も、朝鮮学校に学び、また子どもたちも学
ばせている参加者の体験から不当な中井発言への批判が続きました。

 一連の会場発言を受け、事務局から急遽、緊急行動の提案とし
て、「除外反対」要請文を日韓市民ネット関東として作成をすることにしました。

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# by 1911124 | 2010-03-01 15:54 | 「韓国併合」100年市民NW

『漱石と朝鮮』金正勲著

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各画像をクリックすると拡大
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この地図の画像は「日帝侵略下」の中国東北部と朝鮮半島
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# by 1911124 | 2010-02-25 19:27 | 文学

2月26日講座「林倭衛とアナキストたち」

 講座「林倭衛とアナキストたち」
  「トスキナア」誌発刊10号「記念」
講師 正津勉 しょうづ べん <詩人>       
──孤愁の表現者、林倭衛、古田大次郎(ギロチン社と同志中濱鐵)──

 2月26日金曜日 午後8時 開場         

会場 キッドアイラックホール・ギャラリー 

京王線・井の頭線「明大前」駅徒歩3分甲州街道に出る手前「レンタカー事務所」斜め向かい
同ギャラリー「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展との連携企画 註 予約制・午後8時まで鑑賞できる展示会の入館料200円。講座は無料。展示会場に椅子を設置して行うので鑑賞される方は7時半ころまでに来館してください[地下に村山槐多を記念した「カフェ」もあります]

 発言・亀田 博 <『トスキナア』世話人>  
「H氏の肖像」と久板卯之助。90年振りに「発見」された久板の写真。「トスキナア」11号掲載予定
  林倭衛「仏蘭西監獄及び法廷の大杉栄」 全体での質疑、発言  9時半終了

 主催 「トスキナアの会」  P.H.070-5015-1250 午前8時から昼 futei@jcom.home.ne.jp

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「H氏の肖像」
所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供
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『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー
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『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行
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関係項目リンク
「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛<仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む>(執筆原稿)コンテンツはこの項目と重なる部分があります。


古田大次郎

サイト・アナキズム 大杉栄クロニクル 林倭衛宛手紙部分 記載複数 1923年


アナキストたちの記憶〈大杉栄より、林倭衛宛手紙〉


リンク「山の本」ブログ


『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト


久板君の追悼   村木源次郎 (他の久板関連リンクは現在「切れた」状態です)
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# by 1911124 | 2010-02-07 12:37 | アナキズム

アジアハウス会場地図



新宿区百人町1-12-2 
 ビル名・セイザ新宿 

 TELFAX 03-6413-7104
地図左上のバーで拡大・縮小ができます。

職安通りに面したビルです。路地で迷っても職安通りを目指して出ること。
アジアハウスの名はビルに書かれていません。
ビルの一階は、カフェ・レストラン目印、隣のビル1Fにインドカレー屋。
入口はビル側面、歩道から左側。

大久保駅<新宿より改札>、新大久保駅、大久保通り寄りの改札口しかないので
新宿に向かう路地を抜けます。

西武新宿駅が最寄り駅。高田馬場駅より小さい方の改札口。

地下鉄は東新宿駅、大江戸線・副都心線、職安通りを真っすぐに6,7分。
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# by 1911124 | 2010-01-30 09:34

スコットホール

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入口手前階段、ひさしは短く雨が降れば濡れます。
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扉開けてすぐの右側。二階への入口。当初は「封鎖」しておきます。
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階段
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一階後ろ、椅子を移動して長机を一台300円で借りて置けます。
窓際に椅子が幾つ寄せられか?

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後ろの椅子は固定。この前に長机を置く予定。
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受付用、入口から左側。奥は控え室
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控え室内部、照明とエアコンのスイッチもあり
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受付机内側
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二階
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二階から正面、物を投げやすい環境。
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演台手前
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一階から二階を望む
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# by 1911124 | 2010-01-29 09:33

「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛<仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む>(執筆原稿)

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「H氏の肖像」
H氏は久板卯之助 彼の貴重な写真が「発見」され『トスキナア』11号 4月発行に掲載。

所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供
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『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー

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2月26日展示終了後午後8時から『トスキナア』誌10号刊行・記念「講座」
キッド・アイラック・アートホール3F・4F 
講師・正津勉(詩人)「林倭衛とアナキストたち」

京王線「明大前駅」近くキッド・アイラック・アートホール3F・4Fで2月28日まで
開催中。11:00から20:00 同時企画展・酒場「風紋」開店時間中。
 同展案内の引用
「林倭衛は私の<信濃デッサン館>がある信州上田生まれの人。上京してアナーキスト大杉栄や画家硲伊之助、有島生馬らを知り、道路人夫などしながら画道に励んだ。倭衛の代表作といえば大杉栄をモデルにした「出獄の日のO氏」。
ひとくちにいえば倭衛は<反骨>を貫いた画家だったといいいえるけれども、フランスから帰国して春陽会々になってからの平明な風景画にもいいのがたくさんある。平明と反骨、抵抗と温順。
晩年の倭衛は日々酒浸りでのんだくれていたそうだが、私にとっての倭衛は、一生自分の真の姿を隠していた「孤愁の画家」のように思われる。倭衛の絵の底にある、色彩や線にひめられたふしぎな静けさをみていてそう思うのだ。
 今回の展覧会を「その孤愁のゆくえ」と題した所以である。」
             キッド・アイラック・アートホール 窪島誠一郎

『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行
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他館の展示
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/katudou/houshin/hayasisizue/index.html

「長野県上田に生まれ、東京で育った作者の林 倭衛(1895-1945)は、伸びやかな筆致と鮮やかな色彩で、詩情あふれる風景画を多く残しました。林倭衛といえば、のちに関東大震災で官憲に虐殺されたアナーキスト・大杉 栄をモデルに描いた《出獄の日のO氏》(1919年、長野県信濃美術館蔵)がつとに有名です。略  林は、「センジカリズム研究会」に加わり、当時のアナーキストたちと親交を結びました。

アートログ「林倭衛_出獄の日のO氏」
http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000157.html
『出獄の日のO氏』 大正8年作 長野県信濃美術館所蔵
苦学しながら油絵を習得する。大正8年の二科展に出品された本作は、モデルが反体制運動の中心人物「大杉栄」だったため、治安を乱したという理由で警視庁から撤回命令が出され会場から外されてしまった。

八二文化財団
http://www.82bunka.or.jp/gallery/1989/06/post-33.php
出獄の日のO氏 1919年 油彩
モデルは反体制運動の中心人物、大杉栄。第6回二科展に出品した。しかし警視庁から撤回命令が出され会場から外された。日本が軍国主義に傾斜していくなかで、芸術に対して思想問題での権力介入が行われた最初であり、日本近代美術史上、最大の汚点となった。しかし、この作品は彼の肖像画の中でも傑出。性格描写のすぐれた作品として評価が高い。
 
埼玉県立近代美術館 積藁
http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/kinbi/kin0057.html
2度目の滞仏から帰国後、林倭衛は病弱な妻の転地療養をかねて千葉県市川市に移る。本作はこの時期に描かれ、翌年の新文展に出品されたもの。松田改組によるこの新文展で彼は審査員に推されている。見るものの視線は、中央奥へと連なる積藁によって青紫がかった山影へと導かれ、ついで画面右半分を占める、刈入れのすんだ野の茫漠としたひろがりをさまようこととなる。ほぼ同じ構図の作品が神奈川県立近代美術館に所蔵されている。

同館 別所沼風景
http://www.momas.jp/004josetu/J2006/j2006.07/j200607.htm

姫路市立美術館 デジタルミュージアム 静物
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/meihin/nihon/siz_hayasi/index.html

愛知県美術館 サント・ヴィクトワール
http://search-art.aac.pref.aichi.jp/p/sakuhin.php?OI=OBJ199704947

上田人物伝
http://museum.umic.jp/jinbutu/data/026.html
やがてバクーニン宣言に巡りあい、倭衛は当時としては「究極的な理想主義」の言葉に巡り合えたような情熱を覚え、同じような青年たちとサンジカリスム研究の仲間を作ったのです。そんなグループが社会改革を目指して『近代思想』誌を発刊し、進んで『平民新聞』を刊行に至ったのが大正3年の秋でした。同じ風潮が画檀では二科会を立ち上げていました。

1月22日付け『朝日新聞』クリックすると多少は拡大されます
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仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む『トスキナア』誌10号 2009年10月発行掲載・冒頭転載

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』誌一九二四年六月に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。
しかし井澤と鴨居という松本にとって「毎日」新聞の「先輩」記者の記述に関心を寄せず、固有名詞ではなく「二人の記者」としか表現をしていないこと、林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない点が残念である。
 小松清と大杉栄との関係に関して筆者は数年前に『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ、(一九九九年発行、白亜書房刊)を知り、小松清の未発表自筆原稿は「エゴイスト」の存在から間接的に知り『トスキナア』創刊号に紹介をした。
同書で「エゴイスト」は「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」と解説をしている。大杉のフランス滞在に頁を割いている著作として他に『大杉栄自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松の作品に触れていない。
 掲載号『改造』の一九二四年六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。
「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれる。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 
一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た

二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。

三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。

四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。

五章、リヨンでの中国の同志との交友。

六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。

七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。

八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章。

九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。

十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
 
十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
 
十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。



久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。

1922 1月21日 久板卯之助凍死
1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」
1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄<久板卯之助君凍死す> 1月25日
『労働運動』第3号  1922.3.15
1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 <追悼日誌> 
<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」
<真の革命家> 紀伊 村井林三郎<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……<彼と性欲> 岡野辰之介<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」
1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」
1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」
1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

関係項目リンク

古田大次郎

サイト・アナキズム 大杉栄クロニクル 林倭衛宛手紙部分 記載複数 1923年


アナキストたちの記憶〈大杉栄より、林倭衛宛手紙〉


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『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト


久板君の追悼   村木源次郎 (他の久板関連リンクは現在「切れた」状態です)
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# by 1911124 | 2010-01-22 15:01 | アナキズム

高川山と富士


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御岳山・長尾平

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中学生の学び「社会」

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# by 1911124 | 2009-11-19 19:24 | 歴史

「韓国併合」100年写真・図版展、展示目録

写真展は「韓国併合」100年市民ネットワークが企画・制作、現在会員・会員外への貸出し要項を検討中。
画像協力:韓国独立記念館  韓国民族問題研究所  在日韓人歴史資料館 個人
<当ブログは個人ブログですが参加している「韓国併合」100年市民ネットワークの活動を紹介しています>
http://www.nikkan100.net/shimin.html
「韓国併合」100年市民ネットワーク・公式サイト

これから観ることができる展示会。
2009年11月20日(金)13:00-17:00 21日(土)10:00-17:00
22日(日)10:00-14:30  23日(月)10:00-12:30 無料。
「韓国併合」100年写真展in京都大学 京都大学11月祭「同時企画:加害の歴史を問う」
主催:社会問題を考えるサークルピース☆ナビ 共催:アジェンダ・プロジェクト京都
場所:京都大学吉田南総合館南棟11教室(市バス京大正門前下車徒歩3分) 
①「韓国併合100年の写真展」(「韓国併合」100年市民ネットワーク製作)
②「パネル展示:731部隊-日本軍細菌戦部隊の実態」(731・細菌戦裁判キャンペーン委員会製作)①と②を同時に展示します。

2009年11月21日土曜13:40 スペースの都合で机上部分展示になります
「韓国併合」100年市民ネットワーク・関東主催講座参加費500円
『韓国併合の真実-日韓の100年を問い直す』講師・姜徳相 (カン・ドクサン)さん
第三回11月21日(土)午後1:30開場 14:00講演開始~17:00「解放後」「戦後」
会場・岐部ホール404 四谷駅徒歩2分  

目録のあいだの画像は2009年10月25日の大阪におけるワン・コリアフェスティバルでの部分展示。A3判の写真・図版とA4判のキャプションをラミネート加工しています。

「100年写真展」目録(09・10・25現在)
1.江華島条約1(雲揚艦が江華島を襲撃、1875年)
2.江華島条約2(条約文、1876年)
3.東学農民戦争(1894年) 1-東学党しょうけつ図、2-全琫準。
4.日清戦争1(仁川沖の日本軍艦)
5.日清戦争2(仁川に上陸する日本軍)
6.日清戦争3(1-大鳥公使談判図 2-平壌城戦闘)
7.明成皇后殺害(1895年)(1-皇后肖像  2-殺害された景福宮玉壺楼)
8.帝国の対韓方針
9.第2次日韓協約1(1905年、新聞挿絵)
10.第2次日韓協約2(協約無効を訴える高宗の親書)
11.ハーグ密使事件(3密使、1907年)
12.高宗退位(退位の日)
13.伊藤博文(1841年-1909年)と千円札
14.福澤諭吉(1835年-1901年)と1万円札
15.義兵闘争1(初期義兵)
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16.義兵闘争2(後期義兵)
17.安重根1(義挙直後の安)
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18.安重根2(旅順監獄で撮った写真)
19.安重根3(義挙を讃える漢詩、血書の韓国国旗)
20.韓国併合(景福宮勤政殿に日章旗) 
21.韓国併合条約全文1
22.韓国併合条約全文2
23.「併合記念画報」(大阪新報)
24.「日韓併合紀念絵葉書」(1910年8月)
25.「併合記念朝鮮双六」(京都日出新聞)
26.統治機構1(併合当時の朝鮮総督府庁舎)
27.統治機構2(後の総督府庁舎)
28.統治機構3(憲兵隊司令部+警務総監部)
29.統治機構4(逮捕された人々)
30.統治機構5(京城監獄=西大門刑務所)
31.搾取機構1(東洋拓殖会社)
32.搾取機構2(東拓の移住民募集)
33.イデオロギー機構1(朝鮮神宮階段)
34.イデオロギー機構2(朝鮮神宮神官)
35.「朝鮮銀行券と日本銀行券」
36.2.8独立宣言1(1919年)
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37.2・8独立宣言2(独立宣言書) 
38.3.1運動1(1-高宗の葬儀行列、2-徳寿宮大漢門前)
39.3.1運動2(徳寿宮前の群衆)
40.3.1運動3(1-光化門通り碑閣前の群衆、2-蜂起図)
41.3.1運動4(独立宣言書)
42.3.1運動5(柳寛順、1902-1920)
43.3.1運動6(虐殺)
44.3.1運動7(朝日記事)
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45.武装闘争1(北路軍政署の隊員たち)
46.武装闘争2(新聞記事-青山里大勝)
47.武装闘争3(間島惨変)
48.関東大虐殺1(河目悌二が描いた『朝鮮人虐殺の図』」
49.関東大虐殺2(壺井繁治の詩「十五円五十銭」)
50.労働運動1(元山労働者のゼネスト)
51.労働運動2(1928年のメーデー、中之島公園での朝鮮人のデモ行進)
52.日章旗末梢事件1(ベルリンオリンピックで優勝)
53.日章旗抹消事件2
54.義烈闘争1(金九と尹奉吉)
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55.義烈闘争2(尹奉吉の上海義挙)
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56.戦時下の苦痛1(米の供出)
57.戦時下の苦痛2(金属類供出)
58.戦時下の苦痛3 (1―人の供出-「強制連行図」 2―被徴用者教育)
59.戦時下の苦痛4(朝鮮総督府の手紙)
60.戦時下の苦痛5(虐待された徴用労働者)
61.戦時下の苦痛6(松代大本営地下壕)
62.戦時下の苦痛7-1(人の供出-徴兵制度実施感謝参拝)
62.戦時下の苦痛7-2(徴兵制実施感謝大会)
63.戦時下の苦痛8(人の供出-「慰安婦」金順徳作「連れて行かれる」)
64.戦時下の苦痛9(「慰安婦」移動中のトラックの中)
65.戦時下の苦痛10(「慰安婦」ビルマ戦線で連合軍によって発見)
66.戦時下の苦痛11(サプサリの受難3枚)
67.戦時下の苦痛12(日本語使用強制ポスター)
68.戦時下の苦痛13(獄死した詩人尹東柱)
69.戦時下の苦痛14 1―東方遥拝強制 2―朝鮮神宮に参拝
70.解放の感激1(総督府から降ろされる日章旗)
71.解放の感激2(鐘路通り)
72.解放の感激3(市民行列)
73.解放の感激4(大韓民国臨時政府)
74.解放の感激5(1-出獄  2-大阪西成の朝鮮人)
75.祖国分断1(ヤルタでの3首脳と38度線)
76.祖国分断2(韓国成立と金日成歓迎平壌群衆大会)
77.在日のルーツ1(大阪商船航路図、下関港に上陸した朝鮮人たち)
78.在日のルーツ2「済州島―大阪間の定期船『君が代丸』」
79.外国人登録令と吉田書簡
80.李寛得氏の外国人登録証と協和会手帳
81.BC級戦犯問題
82.阪神教育闘争1
83.阪神教育闘争2(兵庫県庁に座り込む朝鮮人たち)
84.在日の暮らし1(福岡・博多の水上バラック、1957年)
85.在日の暮らし2
86.北帰行(「帰国事業」)
87. 日韓基本条約
88. 金嬉老事件
89.就職差別1(日立就職差別)
90.就職差別2(司法修習生採用決定)
91.指紋押捺問題1(指紋押捺を拒否した韓宋碩氏)
92. 指紋押捺問題2(新聞記事)
93.指紋押捺問題3(金文善氏)
94.日朝平壌宣言
95.勝海舟(1823年-1899年)
96.内村鑑三(1861年-1930年)
97.幸徳秋水(1871年-1911年)
98.布施辰治(1880年-1953年)
99.石川啄木(1886年~1912年)
100.中西伊之助(1887年-1958年)
101.柳宗悦(1889年-1961年)
102.中野重治(1902年-1979年)
103.金子文子(1903年-1926年)
104.槇村浩(1912年-1938年)
105.高知県幡多地域の高校生たち

追補写真 栗須七郎<水平学舎と朝鮮人。水平宣言と衡平社(『正進』チョンジン)、無産大衆党から立候補した栗須七郎の選挙看板。「立看板総計二十枚のうち十枚だけが朝鮮文字 で、第二区には朝鮮人有権者約三千人あり、演説会に聴きに来るものも 多数ある…」朝日新聞は報じる。

2009年10月31日東京における『韓国併合の真実−日韓の100年を問い直す』講座での「展示」
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大きめの長机四台にまず並べました。
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スペースがなかったのでピアノの上に平積みをしました。
講座の途中で長机展示と入れ替えもしました。

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 講演終了後4時45分ころでも熱心に見入る参加者



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# by 1911124 | 2009-11-11 05:45 | 「韓国併合」100年市民NW

「韓国併合」の真実-日韓の100年を問い直す、講座+写真・図版展示

当ブログは個人ブログですが参加をしている「韓国併合」100年市民ネットの企画を随時報告します。
「韓国併合」100年市民ネットワーク・公式サイト
http://www.nikkan100.net/shimin.html

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大きめの長机四台にまず並べました。
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ピアノの上には積み重ねておきました。
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 講座呼びかけ文
 来年2010年は、いわゆる「韓国併合」100年に当たります。「併合」=植民地化に
ついて、「村山談話」(1995年)、「日韓共同宣言」(1998年)では、「多大の損
害と苦痛を与えた」と反省と謝罪の意を表明しました。 他方では、「併合は朝鮮の近
代化を進めた」「良い植民 地支配であった」などという言説がまかり通っています。
 これが日韓関係に陰を落とし、日朝関係の正常化を阻んでいます。 こんな歴史認識
の隔たりと過去清算の未了を放置したままで 「韓国併合」100年を迎えては「未来志
向の日韓関係」などユメモノガタリでしかありません。                
 こんな状況を変えていくため、 市民ネットワークは運動を進め学習を重ねていき3月21日の企画に続き7月20日、10月31日、姜徳相 (カン・ドクサン)先生を講師にお招きし、『韓国併合の真実−日韓の100年を問い直す』のテーマで講演をしていただきました。
 次回は11月21日土曜午後2時講演開始です。

みなさまのご参加をお待ちしています。 


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 カン・ドクサンさんの講演は休みなし二時間半に及び「戦前篇」
は完結しないまま、次回11月21日の三回目最終講座は「戦後篇」にすると
いうことになりました。

 講演の内容は第一回の部分に触れたり時代も前後したのですが、大まか、閔妃殺害
事件から関東大震災にわたりました。
 写真展示もほぼ合わせました。
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 講演終了後4時45分ころでも熱心に見入る参加者

 大型の細長机が部屋には四台を利用。
 講演開始前は江華島から20数番まで並べ、他はグランドピアノの上に平積みを数箇所。

 講演の途中でメインの話の部分と入れ替え、終了後に再び鑑賞。

 歴史の講座が目的で来た皆さんなので、当然かもしれませんが、開始前、
開始後と熱心に見続けていました。

 講演開始前 1時15分くらいから2時まで展示。
 講座中に内容と合わせ平積みと横並びを入れ替えました。
 終了後 4時40分から4時55分まで展示。

 関東で「写真展」のための会場に関しての情報を求めます。
 「なるべく費用がかからない」という「都合のよい」条件が
 前提ですが、協力をいただけるスペースを運営している方、
 そのような場所を知っている方、ぜひ連絡をください。
 
  全写真・図版とキャプションの展示が原則ですが、かなり
 大きなスペースを必要とします。
  三十枚程度の展示、他は平積みという変則でも、場所提供の
 情報があればお寄せください。

また会員・会員外の自主開催を対象に「韓国併合」100年市民ネット・
 事務局で「写真展のための貸し出し」ルールを現在、検討中です。
 関東での問合せは futei@jcom.home.ne.jp まで。

 韓国「聯合通信」日本語版サイトでの10月10日京都、写真展の紹介
 HTTP://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2009/10/21/0400000000AJP20091021001800882.HTML

 ブログ内リンク
 
 大阪・ワンコリアフェスティバルでの写真展

 
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# by 1911124 | 2009-10-31 09:07 | 「韓国併合」100年市民NW

閔妃殺害事件、三浦梧桜に殺害を教唆された予審の48人

この項は執筆した<閔妃殺害事件、与謝野鉄幹の「関与」と「逃亡」>のごく一部である。

<後に歌人として著名になる与謝野鉄幹の関わりも従来、本人の回想を基に「鉄幹が事件に関与」あるいは「殺害に関与」、「予審に起訴された48人の一人」という情報が流通しているが、現時点では本人の回想以外に傍証は見つからず関与の度合いは不明である。もちろん下記にリストアップした48人のうちに与謝野鉄幹の名は無い。
            
 114年前の10月27日はその与謝野鉄幹が韓国から「逃亡」した日になる(退韓者の乗船名簿・外務省史料・には従者ヨサノテツとされている)

予審に起訴された主要人物
 三浦に限らず、前述の堀口九萬一領事官補、杉村濬公使館一等書記らも日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入し殺害に関与をした。
 衆議院議員の柴四朗(東海散士の名で小説を発表)、民間人では熊本の国権主義者が半数近くを占め漢城新報社の社長、主筆、編集長らが関与をした。
 日本政府は関係者、その家族、従者たちを退韓処分とし憲兵の同船により広島に「護送」、広島地裁により拘引状が出され拘置監に収容された。
 
 軍人も指揮官八名が軍法会議にかけられたが「無罪」判決により放免された。朝鮮国内の非難、国際世論をかわすための見せかけの処置であった。
 
 事件の解明はされずに百年が過ぎ去り近年にようやく複数の研究が著された。
 日本は国家として解明をする責務は放棄したまま今日に至る。

 東京学芸大の教員である李修京さんの論文が「ソウル文化トゥディ」というウェブ誌にアップされ本人から掲載時にリアルタイムで教示された。(韓国語)。山辺健太郎講演テープ、三浦梧桜と伊藤、井上、山県の長州閥の深い関与を三浦の回想録などを基に論究。
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2819
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2821

 李修京さんの研究の一部はすでにウェブ掲載論文「朝鮮王妃(明成皇后)殺害事件を語る当時の英字新聞」<李修京研究室ウェブサイト韓日文化・社会論>がアップされこちらは日本語で読むことができる。

日本人殺害加担者、あるいは実行者一覧
 民間では侵略を担った漢城新報社、記者、熊本国権党などが主体。自由党分子も参加。新政府との対立を経て帰順した国権主義者たちである。
 衆議院議員、柴四郎は戊辰戦争での敗者の側にいた。民間の「大陸浪人」と単純化させられない天皇国家とその補完の役割を為した暴漢たちであるが、中心メンバーは当時の社会的「地位」もそこそこあった。後年になり大臣になった者もいた
 前年の七月、景福宮への布告なき戦争行為、甲午農民戦争での民衆虐殺が朝鮮での侵略、戦闘行為の意識を安易にさせたのではないか。

 広島地裁予審判事吉岡義秀による「予審終結決定書」に記されている48人を記す。予審終結決定書は「明治29年1月20日」に出され全員免訴
 通し番号は決定書記載順、整理上の仕分けで資料的な意味はない。
                          

三浦梧楼 当時は公使。予備陸軍中将 華族とされている。東京 予審終結決定書29
岡本柳之助 宮内府兼軍部顧問 和歌山 予審終結決定書1
浅山顕蔵 朝鮮国補佐官 長崎 予審終結決定書35
佐瀬熊鉄 医業 福島  予審終結決定書37
渋谷加藤次 内部顧問官 熊本 予審終結決定書44
大浦茂彦 通訳官 長崎 予審終結決定書45
蓮元泰丸 通訳官 滋賀  予審終結決定書46
堀口九萬一 領事官補 東京大学法学部卒業、事件後ブラジルとルーマニアで全権公使 予審終結決定書31
杉村濬 公使館一等書記 東京 予審終結決定書30
鈴木重元 新潟 予審終結決定書47
柴四郎、衆議院議員、著述業・筆名は東海散士 福島 
三浦と一緒に朝鮮にわたるハーバード大学を終えて再度ペンシルバニア大学で経済学を専攻、政治家、小説家、1892年に議員に選出 予審終結決定書2
安達謙蔵 漢城新報社長 熊本 浪人の終結担当、加藤高明内閣の逓信相、浜口内閣の内相 予審終結決定書に記載順番36
国友重章 漢城新報社主筆 熊本 漢文に造詣が深い 予審終結決定書3
小早川秀雄 漢城新報編輯長、熊本 予審終結決定書23
菊池謙譲、新聞記者 熊本『近代朝鮮史』などを著述した 予審終結決定書15
佐々木正、新聞記者 熊本  予審終結決定書16
牛島英雄 新聞記者 熊本 予審終結決定書20
宮住勇喜 新聞社員 熊本 予審終結決定書48
吉田友吉 新聞記者 岩手 予審終結決定書7
山田烈盛 新聞記者 東京 予審終結決定書14
佐々正之 熊本 朝鮮進出の事業部門を担う。予審終結決定書10
(実兄の佐々友房は関与はしていないが友房の経歴を挙げると、西南戦争、熊本隊に参加(1,200名)、1877年官軍に帰順し1880年放免、1879年同心学舎を設立
し1882年済々黌と改称。「清韓語学研究所」を併置、中国、清から教師を招聘、後に熊本国権党と改名をする紫溟会を立ち上げ参謀本部の諜報活動に協力する)

広田止善 熊本 予審終結決定書5
平山岩彦 熊本 予審終結決定書8
沢村雅夫 熊本 予審終結決定書11
片野猛雄 熊本 予審終結決定書12
隈部米吉 熊本 予審終結決定書13
前田俊蔵 熊本 農業 予審終結決定書18
家入嘉吉 熊本 予審終結決定書19
松村辰喜 熊本 小学校教員 予審終結決定書21
佐藤敬太 熊本 予審終結決定書26

寺崎泰吉 神奈川 売薬商 自由党
星亨の子分、1889年自由党の壮士団、無声館、 予審終結決定書34
中村楯雄 熊本 雑貨商 自由党 予審終結決定書24
田中賢道 熊本 農業 自由党 予審終結決定書27
平山勝熊 熊本 新聞社員 自由党 予審終結決定書28
藤勝顕  福岡 自由党 予審終結決定書6
難波春吉 神奈川 雑貨行商 自由党 予審終結決定書25
(六人の自由党壮士団の背後に法部顧問として朝鮮政府に雇用3,600円の年俸を支給されていた星亨がいた)

月成光  福岡 予審終結決定書4
大嵜正吉、宮城 予審終結決定書9
武田範治 福岡 予審終結決定書17
鈴木順見 京都 予審終結決定書22

境益太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書32
白石由太郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書33
萩原秀次郎 外務省警部 長野 予審終結決定書38
渡部鷹次郎 外務省巡査 東京 予審終結決定書39
成相喜四郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書40
横尾勇太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書41
小田俊光 外務省巡査 鹿児島  予審終結決定書42
木脇祐則 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書43

 軍法会議判決
軍法会議 無罪判決 明治29年1月14日
楠瀬幸彦陸軍中佐、馬屋原務本 陸軍少佐、石森吉猶 陸軍大尉、高松鉄太郎 陸軍大尉、鯉登行文 陸軍大尉
村井右宗 陸軍大尉、馬来政輔 陸軍大尉、藤戸与三 陸軍大尉

予審終結決定書による三浦梧桜の王妃に対する殺人教唆の認定

「岡本柳之助外四十七名に対する謀殺及兇徒聚衆事件平山岩彦に対する故殺事件等検事の請求に依り予審を遂くる処被告三浦梧桜大院君時弊を憤慨し自ら起て宮中を革新し輔翼の任を尽さんと欲するの意を致し陰に助力を求め来りたるより同年十月三日被告杉村岡本と公使館に会し三名謀議の上……略、訓練隊と時勢を憤慨する壮年輩を利用し暗に我京城の守備隊をも之に声援せしめ以て大院君の入闕を援け、略、宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり……」

「又被告安達謙蔵国友重章を公使館に招致し其知人を糾合して竜山に柳之助と会し共に大院君入闕の護衛を為す可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を断つは実に一挙にありとの決意を示し入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し被告萩原秀次郎には部下の巡査を引率し柳之助と協議し大院君の入闕に付尽力すべき旨を命じ…略」
「被告謙蔵重章の両人は被告梧桜の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力…略」

「被告謙蔵重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧桜の教唆を伝えられ各殺意を決し其他右等の事実を知らす一時の好奇心に駆られ附和せし者に至る迄各凶器を携え…略」

「一同は柳之助を総指揮者とし…略…翌八日午前三時頃大院君の轎輿を擁して出発したり而して被告柳之助は其際表門前に一同を集め入場の上狐は臨機処分すべしと号令し以て王后陛下殺害の事を教唆し未だ其事実を知らさりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしめ夫より京城に向い徐々前進し西大門外に於て訓練隊に出逢い…略」

「直に後宮まで抵りたる等の事実ありといえども前記の被告人中犯罪を実行したるものありと認むべき証憑十分ならず……略……刑事訴訟法第百六十五条に従い各被告人総て免訴し且被告三浦梧桜、杉村、岡本柳之助、安達謙蔵、国友重章、寺崎泰吉、平山岩彦、中村楯雄、藤勝顕、家入嘉吉、木脇祐則、境益太郎は各放免す」
「明治二十九年一月二十日、予審判事 吉岡美秀」

主謀者、三浦梧桜
 三浦梧楼が京城現地における首謀者であり王妃、女官、官吏などの殺害の実行正犯であることは確かである。
 広島での予審は48人全員が免訴になっているが、その理由を述べた「予審終結決定書」の記述は奇妙である。

「事実」関係として三浦梧楼と大院君の結びつきを強調し、47人の現場での役割は曖昧のままであるが乱入した目的が三浦に「教唆」され目的が「王妃」を殺害するためと認定しているのである。
 しかし王宮乱入後の具体的行為に関しては判断を避け、「証拠が不十分」であるとし「決定書」を「まとめ」てしまうのである。

 日本政府の一部高官から圧力がかかり「免訴」の決定を出さざるを得なかった状況下、三浦たちの態度があまりにも「自慢げ」に王妃殺害の関与を認めていたため「決定書」に書き残したのであろうか。しかし「誰が」と特定をしないために王宮乱入後の役割は追及されていない。


領事、内田定槌の報告書
 「韓国王妃殺害事件」の綴りには詳細な領事館からのリアルタイムの報告が綴られている。
 その一つに「朝鮮京城領事館」と赤色罫紙の真中に印刷され、内田領事の直筆と推測できるが整った筆遣いで墨書きされ 最後の署名の上には朱肉で角印がくっきりと押され複写ではなくオリジナル一通の原本であることを示している。

<『朝鮮王妃殺害と日本人』で金文子さんは「毛筆細字でびっしりと書かれた」と紹介しているが実際は読みやすい角張ったゴシック文字のような文字>

 金文子さんは同書の終章の 359頁で<本事件を「歴史上 古今未曾有の凶悪」事件であると外務省に報告した京城領事内田定槌でさえも、>と著している。

 原文の最後部を略さず引用すると

<「今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者有之独り壮士輩のみならず数多の良民及安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員及守備隊迄を煽動して歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたるは我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候別紙本件に関する証憑書類及電信往復(本省の分は除く)相添此段及具報候、敬具、明治二十八年十一月五日、在京城一等領事、内田定槌>

との文言である。
 内田は「我帝国の為め」すなわち天皇国家の為に嘆き
「歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたる」と評価をしたのである。

史料翻刻と研究
 これらの史料は『日本外交文書』28巻や『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年、原書房から翻刻され、ほとんどの文書は活字で読むことは可能であり「日本外交文書」は外務省のウェブサイトでアップされている。しかし翻刻で整えられた活字を追うのと異なり原本閲覧では作成をした当事者の息づかいまでが伝わって来る。

 当時、青森大教員の市川が1981年に編集した上記の史料集は研究にかかせない一次史料の翻刻文献であり、なおかつ「解説」で三浦梧桜の事件の「真相隠蔽」「首謀者」ということを顥かにしている。<山辺は1966年に先行して一部史料を引用し追及をしている>。

 内田領事の11月5日付け西園寺外務大臣臨時代理宛「明治二十八年十月八日王城事変顛末報告の件」と題された報告書は自身の「事件」への感想を含め添付の書類が綴じられている。
 それらとは別に10月の中旬、17日の公使三浦の解任・召還を始めとして領事館関係者、民間の「退韓処分」の動向が乗船名を含め家族、使用人の同行も含めて日帝本国外務省へ報告がされている。



参照文献
『日本外交文書』28巻 外務省

外務省外交史料館「韓国王妃殺害一件」
『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年原書房

http://www.u-gakugei.ac.jp/~skdragon/kannichi/kannichi5.html
(同論文関連文献・未見「朝鮮王妃殺害事件の再考」李修京他『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』ISSN1880-4314、07年1月)

『日本の韓国併合』山辺健太郎 1966年 大平出版 

『帝国と暗殺』内藤千珠子 05年 新曜社 第二部 スキャンダルと暗殺 第四章 王妃と朝鮮 第五章 死者たち

『《朝鮮》表象の文化史』中根隆行 〇四年 新曜社 第四章 従軍文士の渡韓見聞録 日清・日露戦争期の朝鮮像と与謝野鉄幹「観戦詩人」

「沙上の言葉四」 与謝野鉄幹 『明星』第五巻五号 1924年10月 134頁 原本未見

「与謝野鉄幹と朝鮮」桧野秀子『季刊三千里』28号 1981年 

『閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲』崔文衡チェ・ムンヒョン 04年
彩流社《ソウル刊01年》

『朝鮮王妃殺害と日本人』金文子 09年 高文研

『評伝与謝野寛晶子明治編 新版』逸見久美 07年 八木書店
歌の解釈と年譜をなぞっただけである

未見文献
『日清戦争と朝鮮』朴宗根 1982年  青木書店
第六章「三浦梧楼の赴任と明成皇后(閔妃)殺害事件」
『閔妃暗殺』角田房子 崔文衡さんは強く批判
「閔妃殺害事件の再考察」秦郁彦『政経研究』43-2 06年10月


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# by 1911124 | 2009-10-31 07:08 | 韓日歴史

新刊『天皇条項の削除を!』 表紙画像↓


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JCA出版 2009年10月30日 定価1200円+税  253頁
東京都千代田区神田神保町1-42 03-3294-0401
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# by 1911124 | 2009-10-30 13:13 | 歴史

リンク・画像「日韓(韓日)市民平和の旅と交流会」


日韓(韓日)市民平和の旅と交流会
イベント その4 大阪、釜ヶ崎・竜王宮・ワンコリア フェスティバル
「韓国併合」100年写真展@ワンコリアフェスティバル 2009年10月25日



日韓(韓日)市民平和の旅と交流会
イベント その3 麻生炭坑訪問を中心とする北九州地域での交流二日目
若松・小田山墓地、八幡製鉄所跡 2009年10月24日


日韓(韓日)市民平和の旅と交流会
イベント その3 麻生炭坑訪問を中心とする北九州地域での交流一日目
飯塚、シンポ・交流会@皿倉山山麓 2009年10月23日
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# by 1911124 | 2009-10-23 14:17 | 「韓国併合」100年平和市民交流

今宿海岸、伊藤野枝追慕 サムビョルチョと蒙古

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今宿海岸はサムビョルチョ につながりはありませんが「史跡元寇防塁」の碑と
眼前の土盛りを見て、この09年5月に「KBS WORLD」で放映されたKBSドキュメント
「歴史追跡  三別抄・サムビョルチョは沖縄にわたったのか」を想起しました。  
蒙古と高麗の闘いの中でサムビョルチョは高麗王朝を見切り南下して闘いを
続けます。そして沖縄にわたったという説を番組で論証して行きます。

映像からのメモ
1273年済州島
よみがえった、13世紀先史時代沖縄
高麗の戦士が沖縄に甦る
暖かい四月の沖縄、那覇
韓国と共通文化

見慣れた風景、豚小屋とトイレ

15世紀首里城、文明はなかった
高麗人がいた高麗瓦の紹介
答えのてがかりは済州島
国立博物館、学芸員オヨンスク 遺物、沖縄瓦と珍島の瓦がそっくり

1977年東京大学で「発見」された 高麗牒状不審条条の説明

済州島で全滅した、今迄信じられてきた史実

なぜ日本に向かわず沖縄へ向かったのか
徳之島、陶器生産地、窯が七つ カムイ焼き11世紀から14世紀 韓国の物と似ている
高麗時代の焼き物と似ている、窯で焼くことを知らない、高麗の人が来て教えた

13世紀後半大きく沖縄社会が変わる各地に城、琉球国につながる
色々な人たちが外から来た中国、朝鮮半島、日本、特に三別抄の人たち
沖縄社会が変わる要因

百以上の城が突然現れる,沖縄の歴史、グスクがたくさん造られる
地形に合わせて緩やかに造られる、高麗の技術が入っている可能性がある
海上王国

沖縄文明の中で甦る
高麗の戦士、断絶 過去からのメッセージ

日本では9月に放映された「NHKドキュメントジャパン」で初めてサムビョルチョが
とりあげられました。
要点は、
蒙古襲来、海底からの遺物
三別抄の抵抗が日本への侵攻を遅らせる
救援要請の文書、当時の日本の支配体制は理解できなかった

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画像をクリックすると少し拡大になり文字が読めます。
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# by 1911124 | 2009-10-22 10:06 | 歴史

奥多摩

同行者を撮った画像が多く、景色だけのはこの二枚だけです。
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# by 1911124 | 2009-10-11 10:21 | 山歩き

朝鮮独立運動家が処刑された10月10日 

 10月10日は当時の新聞にも大きく「事件」「裁判」として報道されているが二人の朝鮮独立活動家が、処刑された日である。
 1928年、1932年と時代は異なるが、いずれも刑法の73条いわゆる大逆罪、75条の皇室に対する罪に問われている。攻撃対象となった当人たちは無傷である。量刑が死刑しかない刑法73条、死刑と無期懲役の75条に付されたことによる。

 現行刑法から1947年にようやく削除。景福宮に乱入し閔妃を殺害した日本人側の襲撃者が、予審段階で
<裁判にもかけられていない。現在でいえば「取調べ」段階である。裁判と勘違いをする方がいるので注意>で免訴になった事とは大きな違いがある。一九二八年五月一四日、朝鮮の独立活動家、チョ・ミョンハ(趙明河)は台湾、台中で天皇の義父、久邇宮邦彦を短刀により襲撃するも失敗に終わり逮捕された。台北高等法院上告部で七月七日に公判が開かれ、事実調べ、検事論告、弁論が行われ結審をした。
金子裁判長は同年七月一八日、刑法七五条<皇室に関する罪>前段を適用し死刑判決を出した。
一〇月一〇日、台北監獄にて処刑された。(記事解禁後の「朝日新聞」による)
 あえて死刑の前段を適用したのは過酷な弾圧である。

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 一九三二年一月八日、警視庁前から桜田門に天皇ヒロヒトの馬車が通過せんとしたときイ・ボンチャン(李奉昌)が爆弾を投げつけた。宮内大臣乗用の馬車の後車輪付近に落ちて馬車に軽微の損傷を与えた。
 イ・ボンチャンは、上海の韓国臨時政府の重鎮で韓人愛国団長の金九を訪ね天皇打倒の決意を語っていた。東京に向かう前年の一二月に愛国団に加入した。

 一九三二年六月三〇日に予審終結、大審院は七月一九日に審理に付すことを決定。九月一六日に即日結審、三〇日に死刑判決を出し、十日後の一〇月一〇日午前九時市ヶ谷刑務所にて処刑された。

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大逆罪弾圧と日本のアジア侵略は不可分の関係である。侵略された被植民地の独立活動家の少なからずは日帝、
日本の天皇を攻撃目標としていた。

 朝鮮の独立活動家シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」(一九二三年一月)には日本天皇を攻撃、打倒目標として明確に掲げていた。独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言している。大審院が翻訳させた全文から一部を引用する。

全文はタイピングをして次のブログにアップしています。韓国語は画像 


「革命の記録は必ず惨絶壮絶然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
 一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切施設物」と打倒目標を掲げている。
(念のため補足。全文は引用できないが、革命宣言は自民族、社会の革命が本質である。日帝打倒、あるいは官憲、売国奴打倒は建設のための破戒としている。第四、第五を転載しておく)
【第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。】
 それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、それらの限界を越える内容である。
 アン・ジュングンの「伊藤博文の罪」は、1905年の乙巳・ウルサ条約強制直後の11月20日付『皇城・ファンソン新聞』に張志淵・チャンジヨンが「是日也放声大哭」を掲載、その伊藤博文批判、<「保護」の五条約が東洋三国の分裂する兆候>や崔益鉉チエイッキョン・の「棄信背義十六罪」の「継承」であり、アンジュングンの「東洋平和論」は帝政や国権、日本の軍隊の存在を前提とした主張である。
(岩波書店刊の雑誌『世界』10月号がアンジュングンの「東洋平和論」を漢文からの新訳として掲載しているが、単に遺稿としての「東洋平和論」の紹介であり、訊問調書、判決後に旅順監獄で聴取された「陳述」での東洋平和論の紹介はされなく、また全く触れられていない。論文タイトルに誘導されたままの限定された東洋平和論の掲載である。)1906年6月に蜂起した崔益鉉は「棄信背義十六罪」の問罪状を日本に送っている。
「韓国の独立・自主の明言、信を破り韓国を不法に侵害、甲申政変、王宮占領、閔妃殺害、乙巳条約にいたる十六項目を列挙」
日本が棄信背義を謝罪、韓国支配を止めることを求め、そのうえで東洋平和のための韓日清三国の協力の必要を説く」『韓国併合』海野福寿、1995年、169頁
 また二・八「宣言書」は生存権での闘争は主張しているが全体は理念的という限界がある。【わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり、最後の一人に至るまで必ずや自由のために熱血をそそぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが民族は一兵も持っていない。わが民族は兵力をもって日本に抵抗する実力はない。しかしながら、日本がもしわが民族の正当な要求に応じなければ、わが民族は日本に対し永遠の血戦を宣布せざるを得ない。わが民族は高度の文化を持ってからすでに久しい。そしてまた半万年にわたる国家生活の経験を持っている。たとえ多年の専制政治の害毒と境遇の不幸がわが民族の今日を招いたものであるにせよ、今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであろう。】
三・一独立宣言の眼目は公約三章にあるが、「一、正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求、自由の精神を発揮、排他的感情になるな。二、最期の一人、一刻まで民族の正当な意思を発表せよ。
三、行動は秩序を尊重し主張と態度を公明正大にやろう、
と行動の指針を示し「日帝に奪われた国権と民族の自由の回復、自主の精神を全世界に見せる」
と抽象的である。
 台湾や朝鮮を侵略し植民地支配していた日本帝国主義は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。
「朝鮮革命宣言」を公表、配布をすれば不敬罪の対象となりまた、その主張に同意をすれば大逆罪、刑法七三条の容疑にて弾圧されるのは必定であった。
 天皇を神格化した大日本帝国憲法のもと刑法七三条は
一九〇八年一〇月に旧刑法の改変にともない整えられた。条文は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。

<『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』
              森長栄三郎発行より抜粋>

≪鍛冶橋監獄署、東京監獄沿革≫

「警視庁監獄署は元鍛冶橋内監倉事務取扱所と称し、八重州町に在り…1870年12月の創設……1874年12月、竣工、称して鍛冶橋監獄……1903年3月、警視庁官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は司法大臣の管理、警視庁第四部直轄たりし鍛冶橋監獄も独立して東京監獄と改称、これより先1901年4月、牛込区富久町113番地に19000坪弱の地に未決監仮建築の工を起こす、1904年3月31日、建坪2700坪、303房に区画、1903年6月25日、鍛冶橋より移転、東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれ1905年5月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……1922年10月13日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれ……震災で被害を受けたが1926年には復旧完成……1937年5月25日、池袋駅近くの東京拘置所が落成するとともに市ヶ谷刑務所はなくなった。……ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことである。幸徳秋水らが東京監獄から発信したものをみると「市ヶ谷富久町113」になっている。しかし、刑場跡の一帯は富久町66番地であったという。1950年から刑場跡余丁町88番地の一隅と言うことになった。おそらく東京監獄ができる前の町名番地が復活したものであろう。1949年頃、刑場跡の場所が富久児童遊園となった。………

補足
 アン・ジュングンが義兵闘争に向かっていた時代に東アジアにおける社会主義者の活動は如何なるものであったか。他の執筆論文から一部転載をしておく。

「社会主義者の連帯「亜州和親会」
伊藤博文が殺される二年前、一九〇七年夏には東京にてインド、中国の活動家を中心にした「亜州和親会」が発足し安南、フィリピンの活動家も加わり会合、研究会には日本の社会主義者も参加、後に朝鮮の独立運動家も加わった。
その理念は中国の社会主義者、劉志培が同年一一月に執筆した「亜州現勢論」(『天義』一一・一二号合冊号に中国語で掲載)に著されている。
「私はさらにアジアの被圧迫民族に次の二つのことを望みたい。
一 同時に独立すること    
二 政府を設けないこと
独立後は無政府の制度を行ない、人民大同の思想を用いて、あるいはバクーニンの連邦主義を採用し、あるいはクロポトキンの自由連合の説を実行して、人民の幸福を永遠に維持できるようにしなければならない。これが被圧迫民族の人民が知らねばならぬことの二つである」としている。
アン・ジュングンが『東洋平和論』の執筆時に「亜州和親会」や「亜州現勢論」を認識していたかは定かではないが、東アジアにおいて日帝が侵略を拡大せんとする時期に民衆の側は日本の社会主義者も含めて東京にて連帯と帝国主義に対する闘いを模索していた。
そしてそれまで朝鮮侵略に対する見解があいまいであった日本の社会主義者たちは一九〇七年七月二一日に決議を発した。
『東京社会主義有志者決議』
「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」
 この決議は直接行動派と議会政策派の両派の機関紙『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。

知られざる革命家ジョ・ソアン
日本政治史の研究者であるイ・キョンソクさんは『平民社における階級と民族』において、理論的に対立をしていた両派が同一に「決議」を行った背景にはアジアの革命家とくに朝鮮人の存在が大きく、抗議と要求があったと論究をしている。とくにジョ・ソアン(趙素昴)の活動に焦点をあてている。
 イ・キョンソクさんの研究によるとジョ・ソアンは一八八年生まれ。一九〇四年に日本留学し〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に戻り九月三日に再び東京に来る。〇九年一二月、親日派の売国的行為に対して国民世論を喚起し宣言書を起草し掲載した『大韓興学報』は停刊処分を受けた。
一九一三年上海亡命、アジア連帯、無政府主義の実践とも見える行動を起こした。亡命動機に「亜細亜弱小民族反日大同党」の結成にあったとしている。
 一六年にジョ・ソアンは再び上海に亡命「大同党」の結成を推進したが進捗せず、満州、沿海洲の朝鮮独立運動家との接触に奔走。後に「三均学会」がある。一九三〇年代に「三均主義」を理論化。それは「朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる」とジョ・ソアンの活動を記述している。

弾圧による社会主義活動の後退
 アジアにおける社会主義思想を軸にした東京での連帯活動は長くは続かなかった。〇八年一月の金曜会の講演会への弾圧、大杉栄、堺利彦らが実刑判決を受けた六月の「赤旗事件」(無政府共産を縫いこんだ旗を錦輝館から掲げて街頭に出ようとした際に官憲から弾圧を受ける)で連帯は分断された。
 さらに朝鮮侵略が本格化した二年後、アン・ジュングンの処刑の年に幸徳たちにかけられた大逆罪適用は日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧であった。
 その幸徳秋水を含め一二人が処刑された大逆罪弾圧からも二年後には百年を迎える」


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# by 1911124 | 2009-10-10 07:13 | 韓日歴史

和田久太郎の意見陳述

「和田久太郎意見陳述」
『労働運動』紙に引用された「和田久太郎意見陳述」 

 和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べているが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズアップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』の<酔蜂・和田久太郎>一九五七年。「関東大震災のとき大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたことの報復を念として…」八七頁。<アナキスト・和田久太郎>一九七一年、においては「和田久太郎はもし大杉暗殺の復讐としての福田暗殺に成功すれば…」ニ九六頁。しかし本人は大杉復讐のためだけではないことを法廷で語っている。([アナキストたちの記憶]九月、六月の項よりデータ再録)

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『労働運動』紙、1925年7月1日発行より

 1925年6月21日。和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた。

「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者や鮮支那人が虐殺されたことに対する復讐である。その当時、流言蜚語を放つた者を厳罰する法令が出て、その流言蜚語を取り次いだ者の二、三が罰せられた事は白日公然の事実であるから、即ちその流言蜚語を放つた犯人が時の政府でなく、警視庁でなかつた事も、確かに白日公然の事実である。然しながら、それと同時にあの当時、各所に流言を放つて歩いた者の多くが、騎馬にまたがつて軍服を附けてゐたもの、自動車に乗つて巡査の制服を着けてゐたもの等であつた事も、震災地にゐた総ての人々の眼に映つたところの事実である。兎に角、あの当時『鮮人を殺せ、社会主義者を生かして置くな』といふ流言蜚語が盛んに行はれた。

 所々に於て鮮人は群集に切り殺され、兵隊によつて銃殺された。平澤計七君等十一名は、ただ社会主義者だといふ理由だけで、真裸体にして突き殺され、首をちよん切られた。何故僕が首を切り落とされた事まで知つてゐるかといふと、その虐殺された平澤君の首と胴体の離れた姿が、偶然にも、当時或る人の撮つた写真の中から発見されたのである。然して、十六日には、吾が大杉夫妻及び六歳の甥の宗坊が憲兵本部に連れ行かれ、諸君の知らるゝ通りの残虐極まる殺され方をしたのである。

又、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲はれ、ある者の家は武装した青年団に襲はれた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、道場や広庭に引出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板等で乱打され、幾度か気絶さゝれた。
 吾が労働運動社は、九月一日から七日迄の間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切の食料品の分配を町内青年団から拒まれた。そして七日に、一斉に駒込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥してゐるのを布団のまゝ留置場にかつぎ込まれた。かくの如き暴虐! これに対する悲憤! それが凝つて以つて今回の復讐となつたのである。がその数多い暴虐の中に於いても、特に、吾が大杉夫妻及び気の毒で堪らないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、尤も強く僕の心を動かした事は勿論である
 あゝ、多くの虐殺された鮮人は、平澤君らに対する虐殺は、皆な「非常時の出来事」として、泣き寝入りになって了った。しかし、大杉栄夫妻及び宗一君の虐殺は、終に古井戸の底に隠し切れなかった。
 僕は国家の定めた法律を侵した。しかも、それは法を知らずして侵したのではなく、知って侵し──侵さざるを得なかったが故に敢えて之れを侵したのである。故に、法律に対してはただその前に此の身体を投げ出すのみで、何事も云はない。
 が、しかし、社会生活を営みつつある全社会の人々に対して僕は声を大にして一言訴へたい。
 諸君は、その社会正義を求める心にこの事実を問ふて、猶且つ……54字削除………と。
 即ち僕のこの心情こそ、この度の暗殺を企て……18字削除……僕の信念を生んだのである。
 
 30行未入力 福田に関すること。概略「福田当人も予審判事への答弁に「私は甘粕の事件は全然あずかり知らない。遺憾に思っている。」

 今、仮に一歩を譲つて、判検事の僕に言はれた如く、また福田自身の言明の如く甘粕の行為は決して福田大将の与り知らなかつた所だとした所で、しかし、あの虐殺が決して甘粕等自身の自発的行動でないといふ事に就いては、多くの眼明きの人々が明白に認めてゐることだらうと思ふ。それ故にこそ福田自身ですら、予審調書に『しかし、私を命令者と和田等が思ふのも亦無理のない点もある。何うも甘粕の裁判の時の態度が曖昧だつたので、私ですら他に殺させた者があるのではないかと疑つてゐる。しかし、軍法会議で裁判も終つた事だから何んとも仕方がない』と述べなければならなかつたのである。然して、この誰も疑ふ当然の疑ひを僕が疑つて、その背後の全責任者として僕は福田大将を睨んだのである。僕は、福田を甘粕事件の黒幕だと推定するに役立つ三つの材料を揚げる。

第一。彼は当時の戒厳司令官である。

第二。九月二日、所々に貼り出された『鮮人社会主義者等が放火し暴動しつつあれば、人々はよく団結して彼等に備へよ』云々の掲示板には、な戒厳司令官福田雅太郎と署名してあつた。

第三。当時、戒厳司令官より各青年団、在郷軍人団に発したといふ謄写版刷りのビラの中に『社会主義者、鮮人を徹底的に取締れ』と記されてあつた。

 即ち僕は、この三つの事実に思ひを潜めて、そして、前述の誰もが抱く疑ひである甘粕の背後の、最も明白な第一の責任者として福田大将を認めたのである。

 私は思ふ。福田雅太郎の直参旗本であつた憲兵隊は青年団、在郷軍人団等の及びもつかない忠実さを以つて、その司令官の内訓にのつとつて、大杉夫妻を『徹底的に取締つた』ものであり、殊に余りに徹底しすぎて、僅かに六才の宗坊をまで『取締つて』了つたのである、と。

 しかし、これでも猶、福田が『その推定は間違つてゐる。私は甘粕事件には少しも関係がない』といふならば、僕は福田雅太郎にお願ひする。

 福田も、甘粕の黒幕があるやうに疑つてゐるのだから、幸い甘粕がのこのこ酒蛙々々と娑婆へ出て来た今日である、その疑ひを何か明白にして貰ひたい。そしてその黒幕を発いて、僕の『間違ひ、思い違ひ』をして翻然と改めさして慾しいものである。が、その背後の黒幕は、余りに大きく数も多さうなので、よもや福田もそれは出来まい。出来なければ男らしく責を負つたらどうだ。『何うも軍法会議が済んで了つたから仕方がない』などと、暗に自分達の軍法会議をけなしてまでその責任を避けやうといふのは、余りに軍人らしくない態度ぢやないか。部下に絶対服従を強ゆる権力を握つてゐるものならば、仮りにその部分の仕出かした誤ちとしても、甘んじてその責任を負つてこそ軍人じやないか。


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# by 1911124 | 2009-09-01 14:32 | 歴史